日本硬質陶器のあゆみ
編集者 重利俊一
発行所 日本硬質陶器株式会社
発行年月日 昭和40年10月20日
印刷所 株式会社吉田次作商店
日本硬質陶器58年の歩み
〔第6編〕 終戦後の会社苦難時代
新会社設立と操業を繞る
係争・争議に悩む日硬陶器
〔注〕本項は別項の争議関係編と、終戦前後における会社記録を併せ参照願います。
主な内容 (新)日本硬質陶器設立、日本硬質陶器内紛、大蔵省要望事項と越藤社長の就任、石原逸三氏帰国、24年8月の政令公布と特殊整理人決定、24年11月日硬産業へ会社引渡、日硬陶業設立と石原氏社長就任、引渡し以降における各種条件、石原氏の回想談
昭和20年(1945)
終戦で本社閉鎖金沢に新設会社
昭和20年8月15日、わが国はポツダム宣言を受諾し、ここに日本の無条件降伏となって、大東亜戦争は幕を閉ざしたのである。
そうなると、朝鮮は旧領土という関係になり、在釜山本社の成り行きを気遣かわれる。会社では早々役員会で対策を講じた結果、本社を閉鎖するが(そのため同年1月30日例えば金沢支社では職員20名に対し退職手当金38,368円を給与している)金沢工場の方は、香椎社長の考えとして戦後処理の行く末も混沌として予測もつきかねる。これは別会社として残置し、操業を継続したらよいとの意見を出し、それに基いて、9月1日金沢で設立発起人会を開き、名称を日本硬質陶器株式会社と決定、新会社創立の設立発起人には、香椎源太郎、大野道雄、三谷進三、田中健三郎、宮本信二、横井伊佐美、門坂与三松、出坂市郎氏ら8氏を挙げ、資本金を取りあえず14万円(2800株)とし、その持株の大部分(2千株)を香椎社長が引受けた。けれど発起人総代には副社長であった大野道雄氏を推し定款作成を行ない、新会社を設立したのである。
今少しこの間の事情を述べると、この新社の常務取締役となる田中健三郎氏は金沢工場長であったが、戦争末期に近く釜山工場に大量の軍需品注文ありそのため田中工場長らを本社へ呼び出し、生産を指導させていたが、終戦となって、社長は田中氏を急拠金沢へ帰らせ、新会社の操業や設立に与からせたのである。そういうことで田中氏は設立発起人会と総会の議長役になり上記の役員をきめたのである。もっともこれは翌21年になっての話しで、その前に金沢で9月1日設立発起人会を開いた。同日に香椎日硬産業代表と大野新設会社代表の両者間において、日硬産業から工場を賃貸契約で借入れる賃貸契約を取り結んでいる。終戦15日目というこの処理は極めてスピーディーである。参考上その賃貸契約の内容を掲げよう。
契 約 書
甲 日硬産業株式会社
乙 日本硬質陶器株式会社
右甲は其経営に係る工場並に之に関連する設備一切を乙に賃貸し乙は之を借受け引続き陶磁器製造販売等の業務を営むに付甲乙間に左の通り契約す
1.賃貸借の目的たる物件左の如し
(金沢工場の土地建物、設備、鍋谷山林省略)
2.甲が右工場及び倉庫に貯蔵してある陶磁器並びに陶磁器原料の製造用諸資材、半製品はそのまま甲の帳簿 価格を以て乙に於て之を引受け其代金を甲に支払うべきものとす、但し右資材買入代金に付き甲の負担する債 務は乙に於て之を弁済し前項代金より之を差引くことを得
3.乙の営業に関する以外の公課は甲の負担とす
4.甲が現に使役しある従業員は可成乙に於て引続き使役し新たに採用の手続きをなすものとす
5.乙は甲の立会を以て決算期毎に収支損益計算を為し其利益金の半額を賃借料として甲に支払うべきものとす
万一損失金を生じたるときは双方合意の上適当に賃借料を協定すべきものとす
6.乙は乙の計算を以て工場設備等の修繕及び改良を為すことを得
但し右工事にして甲の承諾を得たるときはその費用を前条損失金の部に計上するものとす
7.契約の期間は昭和20年9月1日より向う満5ヶ年とす
但し双方合意の上之を伸長することを妨げず
8.9.10 略
以上契約締結の証として本書2通を作成し各自一通を保有す
昭和20年9月1日
日硬産業株式会社 代表取締役 香椎源太郎
日本硬質陶器株式会社 発起人総代 大野 道雄
右契約の締結を承認 也
昭和20年9月1日
右日硬産業株式会社 監査役 水野 次郎
日本硬質陶器金沢で設立
以上の経緯で、設立発起人の氏名や、持株数、日硬産業との賃貸契約締結など事務的に運んで来たのであるが、釜山本社間との通信連絡が難かしくなって来ているところから新社設立の手続きが渋滞し、翌21年2月21日になって、どうやら発起人総会を金沢で開催するところへ漕ぎ付けたのである。発起人総会は先ず株主田中健三郎氏が、議長に推され、1株につき12円50銭あての払込は既に完了しており、自分が保管してある旨を報告し、役員選任の件は次の諸氏が選任せられた。
取締役 香椎源太郎、大野道雄、田中健三郎、宮本信二、三谷進三
監査役 横井伊佐美
なお重役会の互選により、取締役会長に香椎源太郎氏、社長に大野道雄氏が選ばれ就任した。社長に就任の大野氏は、香椎氏の孫に当る人で、20年9月の日硬産業臨時総会で副社長に就任したが、戦争末期頃金沢支社へ藤原工業大学講師三菱重工業技師という肩書で来社し、また副社長に就任した時も、挨拶に金沢へ来て宮本幹部らと工場転用問題や、新会社組織の件などで協議したことがある。
香椎第3代社長起たず
さて香椎社長20年12月静養のため、郷里福岡に帰り、その後大分県速見郡由布院において病気療養旁々時局の成り行きを見ていたところ病にわかに重り、昭和21年3月23日遂に逝去した。享年78才の高令とはいえ、かけがえのない大黒柱を失ったのである。
香椎社長についてはその人となりや、経歴などすでに石原逸三氏や武久剛仁氏らにより紹介されてあるが、第2代社長松風嘉定氏と相ならぶ日本硬質陶器前半史における一大功績者であり、本史上欠かすことの出来ない大きな役割りを果している。
その大黒柱も遂に起たず、とあるから会社の損失も大きいが、香椎一門にとっても大ショックである。早々近親者会議を開いて、善後処置協議の結果、会社関係分では、新設の日本硬質陶器社長にこの前選任されたばかりの大野氏退き(21年4月)同月開かれた臨時総会で、故人の女婿に当る大鳥居信光氏を社長に推し、同氏が就任、それから専務取締役には故人の孫婿の三田徹男氏(神戸商大出身、日本製粉企画課長が最終経歴である)常務取締役工場長に田中健三郎氏が、それぞれ就任した。これで会社の陣容も整い、順調にスタートするかと思われたのであるが、当の大鳥居社長は終始京都に在住するはよいとして、工場へは滅多顔を出さぬ。とかくその間において三田専務との連絡を欠いているその上悪いことには会社も終戦後180度転換した労働運動に経営もゆさぶられ、終戦当時特有の会社経営の難かしさもあるが適切な対策が講ぜられぬ悩があった。たまりかねたか、22年5月26日臨時総会を招集、大鳥居社長を詮衝上の誤まりということで辞めて貰ったが、その際金沢及び取引関係を代表する取締役三谷進三氏は思うところあり、取締役を辞任した。社長解任ということも外部には奇異に感ずるが、後任社長には故人の従兄に当る村松茂友氏が推され就任した。この村松氏は浜松市の弁護士で故人遺言執行人の一人である。なおこの臨時総会では村松氏のほかに田中益彦氏(山口県防府)神田靖(日硬物産販売代表)の2氏が取締役に就任し、結局取締役1名増加となった。とに角、創立早々にして、目まぐるしく変る会社代表者の更迭である。それだけに大黒柱香椎氏の死が今更ながら惜しまれるわけ、天寿なお氏に許されるならば後記するような紛争も起らなかったであろうにということもいわれる。いずれにしても氏の死去は会社、香椎家共にこの上もない不幸である。しかも一門は村松社長を選任したというものの一向にすっきりしない。特に故香椎氏所有株の2千株の名義書換をめぐる村松、三田、田中(益)氏らの軋轢は、どうしたことであろう、しまいには金沢地方裁判所までお互いに訴訟が持ち出されたために金沢地方裁判所では弁護士神保泰一氏を会社の職務代行者として選任されるという仕末である。然らば肝腎な商売の方はどうか。
創立当初の成績
先ず第1回の営業成績である。総会は21年8月20日本社で開かれ、大鳥居社長欠席のまま三田専務議長となり決算を承認したが、営業期間は20年9月から21年6月までの10カ月間、期中売上72万円、利益3万円を計上することが出来、5分の配当をした。この第1回は終戦最初の決算であり、ここに原文通りの概況を記す。
第1期営業概況より
終戦後の陶業界は、依然混沌たるうちに、手持金の封鎖引続き事業資金の凍結等有史以来かって国民の体験なき大難関に蓬着し、やむなく金沢工場を分離、新設会社にて操業を継続せるも、この間原料燃料は固より各種消耗材料の昂騰と、生活難による人件費の増支出相続き、就中石炭の消費は極度に逼迫し、国内インフレはますますその度を高めつつある状態なり。一面生産は価格の統制と査定に抑制せられ収入と支出の均衡を欠き予期の成績を挙げ得ざりしは、遺憾とするところなるも、工員の充実熟練向上と見返り品の輸出準備生産は、目下進展中なるを以て、近く活発なる動きを見せんか、当社の前途実に洋々たるは言を俟たず。幸いに空爆を免れたる工場において、僅少なりと雖も操業を継続し得たるは欣幸とするところなり。
田中健三郎氏
金沢の人、県立工業窯業科卒業、壮年時中国に渡り当時(清朝)山西省大原で窯薬教師として奉職中、革命勃発で帰国したが、たまたま京都で松風社長に奨められ硬質陶器に入り畠山表工場長の下にいたが後、大野専務の推薦で工場長に昇格した。昭和3年頃だが終戦後日本硬質陶器が新設されるや常務として創立等に携わったが、後辞して金沢の自宅に悠々自適していたが38年物故した。
第2回総会
この期は21年7〜12月の年度決算で売上高122万5千円余、利益15千円を計上、配当年6分、2,250円を後期に繰越した。営業報告書によると「前期より引続き経済は混乱状態に陥入り物資の昂騰は停止するところを知らず、生産資材の調達は、殆んど新円に非ざれば、入手不可能と多大の苦心を要する上、8月に至り第2封鎖の設定等相次ぐ難関に遭遇し、生産隘路は石炭以外に無きも之が配給は極度に抑制せられ、辛じて同業者間の融通により操業を継続したるも目下県内各同業者中より多大の犠牲と、大切なる生産員を採炭応援隊に派遣中なり、これが報償炭と冬期需要期の経過を期待しつつ、本期を経過したるため、予期の成績を収むることを得ざりしは遺憾なりき。目下進捗中の見返品及び進駐軍向け注文品製作が軌道に乗り、近く自由貿易再開の暁には前途の光明は期して待つべきなり」と書き出されている。
(22年2月25日総会 大鳥居社長欠席、三田専務議長)
昭和22年(1947)
第3回総会
(10万6千円の赤字)ところが22年6月期の決算となると、売上げは180万円と増加したが、一挙10万6千円の欠損を生じ、35千円の払込金を吹き飛ばしている。次の損益計算表通りである。
損益計算書(昭和22年6月30日現在)
| 収入 | (円) | 支出 | (円) |
| 製品売上高 | 1,816,627 | 営業費 | 611,905 |
| 製品在庫 | 177,101 | 製造費 | 2,056,958 |
| 半製品在高 | 329,140 | 前期繰越製品 | 52,258 |
| 雑収入 | 780 | 同半製品 | 20,716 |
| 貯蔵品原料在庫 | 212,341 | 同仕掛品 | 9,036 |
| 損金 | 106,761 | その他 | 2,498 |
| 計 | 2,646,633 | 計 | 2,753,373 |
かかる大幅な赤字を出した理由は、インフレの激しさと、会社内部の葛藤、さては労賃の値上りなど悪要因が重なりあい、この第3次決算において一挙悪い面が現われたためである。だが一方に戦時中から続く品不足に伴う殺倒する受註あり、さては貿易再開に伴う当時の対米為替は550円という円安条件もある。経営のやり方の如何では、収益を上げることも出来る、如何せん、前記のような悪事態が横たわっているので、折角のチャンスを掴み得ない、徒らなる紛糾となって荏然日を糊塗しつつあるのであるから外部から調停でも来ない限り解決はなかなかむずかしい。その時外部から提起された問題が在外資産の無許可操業ということである。
昭和23年(1948)
大蔵省案の会社再建策発表
在外資産の無許可操業というのは、米司令部の措置で日本の旧領土となったところにある、いわゆる在外会社の内地にある工場については、管理の衝に当る連合軍司令部の許可を得なければ、工場は無断操業となるわけで、昭和20年大蔵省令第88号に規定されており、大蔵大臣の監理事項となっている。
会社当事者が、それを知りつつ、その措置に手ぬかりのあったか、それとも他に確信のあってのことか知る由もないが、この無断操業のことを連合軍司令部や、大蔵関係官へ問題にとり上げて行く外部のものもあり、これで泡よくば使用許可を得て会社をものになさんとする野心家もあるという。この不許可操業の通報で総司令部も捨て置けず、実情調査方を大蔵省に命じ、大蔵省は担当の管理課より大蔵省事務官有保昇氏を金沢へ派遣して調査に当らしめる旁々同事務官が主体となり、当該会社が輸出産業に貢献しているというところからその解決策を講ずべく、長期滞在の上、県、財界その他各方面の意向なども聴取し、成案を得た。それは「日本硬質陶器株式会社の再建に関する大蔵省要望事項」なる解決策事項で、有保事務官はこれを23年2月20日、金沢商工会議所に、会社、株主、労組関係、財界など関係者を招致し発表し協力を要望した。
その要望事項というのは、後になって石原氏らに反対されたのであるが、金沢の地元財界の協力を骨子とする次のような内容のものである。
1.現重役全部及び今般の内紛事件に関連した人々は即時に辞表を提出して頂きたい。当社の労働組合に所属する人々はこの限りでない。なお田中健三郎氏は新陣容決定までその辞任を留保する。
2.現重役総退陣後、会社再建のため、石川県商工会議所会頭西川外吉氏を産婆役として全権を一任するので各方面とご連絡の上、一日も早く再建の道が拓くよう最善を尽して頂きたい。
3.会社再建の基礎として金沢財界の出資を中心とし、これに岩崎清一氏の出資をも切望する。
4.村松、三田両氏等より提起中の一切の訴訟事件はこれは機として直ちに取下げられたい。なお円満解決の上所謂両派とも、過去を水に流して元通りの美しい交際を続けられるようお願いする。
5.社長その他会社の首脳部になられるべき方は所謂不在地主的な存在でなく、なるべく当石川県に在住し事業遂行の円滑を期せられたい。
6.株券の発行を速かに行われたい。
7.当会社を今日まで貢献された岩崎清一氏に対しては、再建後その取引例えば輸出向製品の取扱等につき特別のご配慮を願う。
8.岩崎氏は輸出品の値上り差金100万円也を直ちに返済されたい。なおこの場合年5分の法定利息をつけられたい。
9.会社目出度く再建の上は、故香椎源太郎氏のご遺族に対し礼をつくされるとともに、何分のご援助を賜わらんことを切望してやまない。
以上石川県及び日本産業復興並輸出振興のため、日本硬質陶器会社を再建し以て在外本社の在内地財産の管理運営を全うし、大蔵省令第88号の趣旨に遺憾なからしめんよう本要望事項を提出する。
産婆役である西川外吉氏は何卒邦家のためと思い万難を排し再建にご尽力下されんことを切に希望して止まない。
昭和23年2月20日 大蔵事務官 有 保 昇
石川県商工会議所会頭 西川外吉 殿
この有保事務官案である、大蔵省要望事項に対して、西川会頭はこれを受諾し最善を尽し再建に邁進するなる請書を出し、一方日本硬質陶器取締役職務代行者神保弁護士は各重役、関係者の辞表を取りまとめ、且つは訴訟の取下げその他について解決を講ずべき一歩を踏み出したのである。一方会社側もこれに対し神保職務代行者に村松社長ら各重役連名で、3月10日付を以て覚書を提示し『大蔵省要望事項の趣旨を諒承し、現在の重役全員即時辞任し(但し常務田中健三郎及び監査役門坂与三松は新重役決定と同時に辞表を提出する)村松、三田、田中(益)等より提起中の一切の訴訟事件を取下げ、会社再建については、石川県商工会議所会頭西川外吉氏を産婆役に一任する』旨の意志を表示した。依りて商工会議所を主体とする会社再建に関する人事ならびに経営その他再建方途に関する具体的事項の斡旋ならびに解決をはかる、日本硬質陶器会社の再建委員会が設置され、3月6日金沢商工会議所で委員会側と会社側、株主代表と会見し、会社再建に関し会社側等の希望事項等につき協議した結果次の事項を申合わせた。
1.申合せ事項
(1)再建の一般的方針に関する事項
日本硬質陶器株式会社の再建が特に貿易産業の進展に多大の寄与を致すに鑑み、日本経済の復興にかかわる地方産業界の重要なる問題として取扱うため同会社再建委員会にて再建に関する人事並びに経営その他再建方途に関する具体的事項に亘る一切の斡旋ならびに協力をなすべきとともに経済の民主化を根本基調とし公明且つ合理的な解決方針をとるべきの方針の下に会社再建をはかることを双方相共に確認したり利害関係を一てきして右方針に同調しこれが早急な具現に一致協力すべきことを誓約したり。
(2)具体的申合せ事項
イ 新重役の推薦に関する事項
現在の多数株主側より紛争当事者双方間の円満な内部的談合の上、1名の重役を推薦すること、並びに少数株主側よりも、関係者相互間にて、協議の上重役1名を推薦すること。
なお会社再建後、その発展に障害並びに悪影響を及ぼさざるものと認められる場合には、右重役の増員を考慮するも差支えなきこと。
ロ 資本増加に関する件
資本の増加は、同会社再建の問題と、不可分の関係にあるを以て、会社の来るべき定時株主総会において、資本増額を500万円とする資本増加の件を付議しその実現を図るべきこと。
なお現在の株主に対しては、増資新株式数の2割に相当する株式を割りあてるよう考慮すること。
ハ 取引関係に関する事項
今後の会社内外の経済情況に呼応しつつ現在における取引関係の尊重についてこれを考慮すること
右申合せ事項を確認し、茲に関係代表者記名捺印する
昭和23年3月6日
日本硬質陶器(株)重役代表
取締役 職務代行者 神保 泰一
常務取締役 田中健三郎
同 会社 株主代表 株主 神田 靖
〃 三田 徹郎
同会社再建産婆役兼
同会社再建委員会委員長 石川県商工会議所会頭 西川 外吉
参考に当日の出席者を挙げると次の通りである。
会社側及び株主側は 神保、三田、田中(健)、宮本(信二)、田中(益)、門坂(与三松)、神田、株主 三谷進三代人 市川潔
再建委員側 西川会頭、真柄副会頭、中村金沢商工会議所会頭、吉田同副会頭、越馬同副会頭
参 列 者 大蔵省管理局事務官 有保昇、同野田二朗、金沢商工会議所事務局長 七野政吉
以上
ということで金沢財界の代表府ともいうべき商工会議所が、如何に力をいれているか、この顔触れでも分る。
越藤恒吉氏社長に就任
こうして産婆役西川会頭の斡旋もあって、硬質陶器の紛争も一段落し、後は3月26日金沢商工会議所で開かれる第4回定時株主総会で新役員詮衝等を待つのみとなった。その第4回総会では取締役職務代行者の神保泰一氏議長席につき、議長からこれまでの経過報告があり、
1.22年下半期の営業報告書その他決算案関係(承認)
1.500万円に資本増額の件(原案通り承認)を諮り、また故香椎源太郎氏の名義書換の件では「故香椎源太郎名義の株式2千株に付て同年4月20日以降増資認可までの間に株式名義書換ありたる場合は、増資認可当時の名義人は前項の適用についてはこれを同年4月1日現在の株主と見做す」ということでこの問題に終止符を
打った。次に当日議題の眼目たる。
1.取締役、監査役全員辞任に伴う新取締役監査役選任の件については、選挙の結果は左の通り選任した。
◇取締役 越藤恒吉、小堀保行、人見忠ワ、園部昌良
◇監査役 市川潔、神保泰一
なお会社を代表すべき者として、越藤氏が推され氏は社長に就任した。
その他
1.取締役及び監査役に対する報酬額の件は取締役会に一任し
1.辞任取締役及び監査役等に対する慰労金等贈呈の件については、議長から本議案中に付、取締役職務代行者及びその補助者石原逸三に対し給すべき報酬の件も含まれておる旨を説明し、審議の結果、辞任の取締役監査役6氏に対し総額20万円の退職慰労金を職務代行者及びその補助者の慰労金は取締役会に一任することにし閉会した。
なお資本金500万円に増額する件は現在資本金14万円であり、これに486万円を増資するのであるが、取締役会では昭和23年4月1日現在の株主に対しては増資新株式数の2割をその所有株式数に応じ割当てるよう承認されている。また期中成績は(22年12月期)売り上げで450万5,00円、損失762百円を計上、後期繰越損失金は18万785円となった。
さて新たに社長に推された越藤恒吉氏は戦時中台湾銀行の理事で昭和初頭番町会問題といって騒がれた帝人事件の処理にも手腕を発揮して知られた人、当時の石川県知事柴野和喜夫氏の縁戚に当る人である。また専務取締役に推された取締役小堀保行氏は当時の小松製陶社長の縁者筋に当り、監査役の市川潔氏は株主三谷進三を含めて金沢側出資者代表ということで就任したものであり、当時三谷産業(株)の常務取締役で(現在同三谷産業ならびに日本硬質陶器各監査役)あった。
産婆役西川会頭の真意
ところで日本硬質陶器再建の産婆役となって、いわゆる大蔵省要望事項に協力し、会社の増資達成にも金沢財界各層に呼びかけるなど、何かと援助を惜しまなかった石川県商工会議所(金沢商工会議所)会頭西川外吉氏の援助ぶりは熱心である。しかし動機は単純であって地元産業を終戦の混乱から立ち直らしむる担い手としての会議所の当然の役割を果したまでである。ただ結果が、在外会社の工場という特別の会社であっただけに、意外に波紋が起りあのようなことになったのは、心中遺憾であったろうが、それにしても対立する石原、越藤間にもっと話し合が進められ、円満に解決したらという感想も出ないではない。本稿編纂の目的で一日西川会頭を訪ずれたが当時意図するところにつき話されたことによると----
----終戦直後、混乱している金沢の産業界で私の念頭に置かれたのは、明治、大正時代から話題となっている三会社の動きである。即ち倉庫精練会社と、丸文機業場、それにこの硬質陶器の三社である。この三社は地元産業の特異性をそれぞれ身につけており、終戦後における成り行きに注目を払っていたのである。幸いにして、倉庫精練はあのように復興への途を取り戻し、丸文の方はその後帝人直営の丸文繊維工業となって繊維本来にもどり、残るは地元の輸出産業上にも欠かせられない硬質陶器である。それが終戦直後の操業時においてあのような内紛があり、会議所としても放っておくことの出来ないところまで来ている。あのままにしておけば支離滅裂ついには潰れてしまうとみたので何とか解決してやりたいと思って援助したまでである。結果は皆様の知られるようなことになったが、その後苦難を経て来た同社が、最近急速に発展し、あのように三谷氏のよい指導の下に松任に立派な工場が建てられ、よい成績を挙げていることは結構である。しかしそれだけに終戦当初若しも自分らが会社再建の世話をしてなかったならばどうであろうかとも考えられて当時を思うと感慨なきを得ない。----
という会頭の感想である。
硬質陶器創立以来の成績
そこで参考上創業以来の各決算期の業績を記しておこう、その期別業績は別表にもある通りで、各種の悪材もあり、計上決算は利益より赤字である方が多い。
(附) 日本硬質陶器業績表
(昭和21年創立時から閉鎖まで ▲は減)
| 総会回数 | 年月(千円) | 売上(千円) | 利益(千円) | 配当 |
| 1 | 21.6 | 720 | 30 | 5分 |
| 2 | 〃12 | 1,225 | 15 | 6分 |
| 3 | 22.6 | 1,800 | ▲107 | 無 |
| 4 | 〃12 | 4,505 | ▲76 | 〃 |
| 5 | 23.6 | 12,343 | ▲134 | 〃 |
| 6 | 〃12 | 25,508 | 1,788 | 6分 |
| 7 | 24.6 | 40,423 | 2,395 | 8分 |
| 8 | 24.12 | 21,520 | ▲644 | 無 |
| 9 | 25.6 | 整理期 | ▲1,184 | 〃 |
| 10 | 〃12 | 〃 | | |
| 11 | ↓ | | | |
| ↓ | 省略 | | | |
| 14 | | | (▲199 | |
| 15 | | | (前期繰越損金3,050 | |
この決算期のうちすでに、第1期から第4期まで記述したので、第5期(23年6月期)以降の分を説明すれば、第5期は損失金153,000円第6期(同12月期)は逆に1,787,000円(配当6分)の利益となっている。かかる大幅利益となった原因は、森村商事と日本硬質陶器貿易会社の輸出取扱品が激増した上に、内地向けも適宜処理が出来た結果である。何しろ期中売り上げが2,6百万円に近く、対前記比90%増という僅か半期間における驚異的な増加であるのでこうした利益も出たのである。従って続く第7期も好調で売り上げで4千余万円、前期に比し1,500万円近き増加ぶり、そこで配当も6分から8分に増配されている。然るに第8期(24年12月期)となると、内外市場共に不況下にあってパッとせず、たまたま24年8月1日付の政令公布により、工場を日硬産業に返還せねばならなくなり、それの善後策や何かで充分な販売生産が行われず、且つ11月15日を限り、操業は日硬産業に移るので、会社本来の事業は停頓状態に陥り、日硬産業との折衝ならびに債権、債務の取立、支払いが今後の最重要な事柄となり、これが期末成績に波及して売り上げは1,568万円(対前期比2,534,000円の減)となり、157万円の損失金計上の余儀なきに至った。更に第9、10期となると、会社は整理会社で営業は停止している、ただ赤字とならず、第9期は利益644,000円、第10期138,000円とそれぞれ利益を出している。
石原逸三氏の投じた波紋
そこで話は相前後するが、当時最大の会社の対外問題ともいうべき、いわゆる旧領土所在会社の工場というところから、いわゆる無許可操業問題が派生し、主導権を繞って会社側と旧日硬産業取締役金沢支社長の石原逸三氏、この両者間の激しく対立した交渉経過について記してみたい。
前述のように、地元産業育成という見地から西川会頭ら、金沢財界の支援もあって、いわゆる再建日本硬質陶器はベテラン越藤恒吉氏を社長に新しい陣容もなり、資本金を500万円に増資して、体固めをする一方、在外会社の件も大蔵省を通じ、総司令部に正式工場操業許可を得る手続きなどをして事業を進めていた。そこへ石原逸三氏がソ連エラヴカ収容所の抑留生活を終え、22年12月帰って来る。金沢へ出て硬質陶器の内情を調べると様子がガラリ変っていて会社の指導権は、凡そ自分らと関係なき人々で運営されている。
『本来の権利者である日硬産業と無関係のものが、会社再建と誇称するなど不信も甚だしい。そこで私は旧重役、株主達にも会って意見を聞いてみたところ何れも同様の感を抱いている。彼らの要請もあり、自分も正義観よりして会社本来のものとするため、先ずG.H.Q.に訴えねばならぬ』
と昭和23年6月であるが、そこで係官ジエム氏を訪問し、実情を訴えたのである。するとジエム氏は「お話しはもっともな事と思うが、実はこの件で本日大蔵省より、日本硬質陶器に対し、経営許可に関する具申も出たので、許可する予定であった。しかしそのような話しだと、もう一度調べ直さねばならないが、たまたま本日午後大蔵省管理課長が出席するので、貴下もそれに出て意見を述べられたらどうか」ということであった。そんなことで石原氏は午後のその席に出ると、米側立会の上で管理課長と激しい応酬を交わすことになった。管理課長は"経営の主体は何処までも日本硬質陶器である。日硬産業は将来これと合併の形で処理すべきだ"と主張し、石原側は"とんでもない話しだ、課長の意見は本末?倒も甚だしい"と応酬し当然の権利者である日硬産業が経営の任に当るべきだ"と論及し、両者の意見は対立のまま互いに相譲らない。
しかし係官もここでどうという判定も出来ないので"本日における許可の件は一時延期する"と発言しこの問題は一応白紙に戻ったのである。連合軍司令部における、この白紙還元によって、日本硬質陶器の越藤社長は地元財界を背景に、その合法性、地方性を強調して、猛然と関係方面へ運動を行い自社に有利ならしめんとし、石原側に対し一歩も譲らぬ。対する石原側もまた日硬産業の重役であった谷、古城、水野、上山、福島氏と相諮り、日硬産業を再建して対処することとし、23年8月日硬産業の臨時株主総会を、京都商工会議所で開催、旧重役、株主ならびに委任状とも過半数の出席者を得たので井谷儀三郎氏仮議長となり石原氏からこれまでの経過報告あり『金沢工場は方便的に日硬産業の第二会社的性格であり、将来日硬産業再建の基盤たらしめんとしたのであるが現状では全く趣旨に反し、大蔵省側の誤まれる判定に基き、全然関係なき第三者により、金沢工場が運営されている、この際われわれは一致団結日硬産業の再建に努むべきである』と論じ満場一致次のような決議を行なった。
1.日硬産業金沢工場の再建に邁進のこと
2.再建策、当局陳情等一切の行為を石原取締役に一任する
3.日本硬質陶器と解決まで賃貸借契約とする
石原側はこの決議に基き、井谷、古城氏らは越藤社長に面談し、改めて賃貸借契約の交渉を始めたのであるが、越藤社長は、現工場は大蔵省より許可せられて経営しているのだから、日硬産業とは何ら関係はないと問題とせず、これも物別れとなった。
かくて両社を繞る紛争は一段と深刻化して来たのであるが、石原側はその間において、朝鮮事業者協会(朝鮮に本社を置いた会社の戦後処理機関)やその中央機関である海外の事業対策中央協議会(会長渡辺慶之助)などの熱心かつ強力な支援を後楯に猛烈に運動を展開して来た。そのためC、P、C担当官デイトン氏やジエム氏らも石原側の主張に耳を傾けるような情勢になった。
昭和24年(1949)
在外資産の整理要項政令公布
たまたま、昭和24年8月1日官報号外を以て、在外資産の整理要項に関する政令第291号が公布された。そしてこれに伴い、特殊整理人選任の官報が出て、これに整理計画による業務執行をさせることとなり、日硬産業にも当然特殊整理人が選任されることになった。会社の場合、それでは誰れが選任されるか、これに対し総司令部も取捨に迷い果して誰になるか当時注目を浴びたものである。しかし総司令部は石原氏を特殊整理人として通告したので、8月3日付を以て大蔵省は理財局長名で日硬産業株式会社石原逸三氏あて「石原逸三は日硬産業株式会社の日本における代表者として会社の再編成に関し準備を開始することを許可する。昭和24年8月1日付大蔵省告示第2号 旧日本占領地域に本店を有する会社の本邦内にある財産の整理に関する政令(昭和24年8月10日第291号)第10条第2項の規定により在外会社の特殊整理人を次のように選任した。 日硬産業株式会社石原逸三」という文書で氏を特殊整理人に選任した。
特殊整理人とは、24年8月1日付を以て大蔵省理財局長名で選任せるもので在外会社の内地工場における業務執行代理者である。これに基いて、同年9月26日日本硬質陶器に対し、石原特殊整理人は9月21日付を以て該工場の引渡し方を10月31日期限として申渡したのであるが、会社側は各種法規を楯に引渡しに応じない。そこで整理人は更に11月15日付で引渡し方を通牒した。その間総司令部民間管理局(C. P. C)は大蔵省を通じ、会社に対しメモランダムを発し民、商法の規定にかかわりなく、工場の設備の一切を特殊整理人へ引渡しを通告し、そのため11月15日にはC. P. Cの前記W. Hデイトン氏も来沢、石原、会社間を立会って翌16日を期し先ず資産目録書の物件引渡しを了した。
なお取締役の任期3年、監査役は同2年とし、何れも就任の許可があり、石原氏を社長に推し、氏は日硬陶器最初の社長に就任した。明治41年創業時の社長宮野良一氏以来第4代である。
(注)解散となった日本硬質陶器は日硬産業の貸借会社なので別箇会社と解釈し創業初めの大野社長以来園社長までの歴代社長を別関係とした。
特殊整理人写し
収理管第179号
昭和24年8月3日 大蔵省理財局長
伊 藤 隆
1.石原逸三は日硬産業株式会社に於ける代表者として会社の再編成に関し準備を開始することを許可する
昭和24年8月1日付(官報所載)
大蔵省告示第2号
旧日本占領地域に本店を有する会社の本邦内にある財産の整理に関する政令
(昭和24年8月1日付政令第291号)第10条第2号の規定により在外会社の特殊整理人を次のように選任した。
日硬産業株式会社
石 原 逸 三 金沢市穴水町3番28番地
日本硬質陶器はこの引渡しに伴い、本社を金沢市彦三8番丁へ移転したが、引渡しの相手先日硬産業との交渉円滑化の必要上、再び長町工場へ事務所を移している。
一方同社としての生産業務は、15日の返還以後、停止せねばならぬことになったので、会社側はこれに対し、24年12月6日臨時総会で、引渡しに関する承認を受けている。なお23年11月18日引渡しとともに、日硬産業が新事業主となる、事業主変更届が、石川県知事宛提出され長町工場における事業はここに完全に日硬産業と乗り替ったのである。
昭和25年(1950)
整理計画による新会社設立
かくて、約2年に亘るさしもの紛争も解決したが、日本硬質陶器の越藤社長にとっては極めて後味の悪い結果となった。越藤社長の気持を察すれば、雄図空しくというところであろうが、それにしても在任中は当時の関係者の話すところによると、実に勢力的に熱心に仕事を続けた。当時の関係の田中氏に聞くと、如何にも遣手らしくワンマンぶりを発揮して大小の事務は何でも自分で片づけてしまう、当時工場は従業員数250名、その顔をいちいち覚えていて工場を廻って歩いていると、ポンと工員の背中を叩くという愛想も忘れない。納品の期日にはなかなかに気をつかい、担当者を激励するやらして納期厳守主義を貫ぬこうとしたという、そんなわけで工員などには好意を持たれたようだとのこと、もっとも小堀専務とはどうもウマが合わなかったか、小堀専務はすでに24年3月辞任している。しかし越藤社長としては、会社所有財産の処理に関し、石原特殊整理人と折衝解決に当らしめる人に神保弁護士を社長代行として委任し、神保弁護士はまた石原氏との関係を密接ならしめるため石原氏と親交ある園酉四郎氏に、交渉役を依頼した。然るに25年2月28日の第8回定時株主総会で越藤社長は辞めるに至ったので園氏が社長に就任した。
この園社長就任で石原整理人との連がりも円滑に行き、日本硬質陶器の整理解放準備も軌道に乗った感じである。一方在外会社日硬産業の整理計画書も出来たので、整理計画認可方を、昭和25年5月15日付で政府へ申請せるところ、同年8月3日付で三大臣(池田勇人大蔵、吉田茂外務、横尾龍通商)名で石原特殊整理人宛整理計画書の認可通知を受けた。よって旧日硬産業は即日内地法人の設立手続を行ない、次の役員を選任し、その就任を許可せられ、名称は日硬陶器株式会社として発足した。
◇日硬陶器新役員
取締役 石原逸三、井谷儀三郎、福島源二郎、上山節(現日本硬質陶器取締役工場長松本三則氏の岳父)、古城利吉、山崎巌、浅井竹五郎、園酉四郎
監査役 水野次郎、山下真一郎、円谷司娜子
なお石原氏は社長、上山氏は常務となり取締役会長に山崎巌氏が推された。
会長の山崎氏は元内務大臣自治相、後会社顧問となった。また支配人に村松常氏が選任した。
◇新会社申請当時の試算表(25年3月31日現在)単位千円
| (借方) | | (貸方) | |
| 現金預貯金 | 243 | 資本金 | 630 |
| 受取手形 | 1,587 | 支払手形 | 2,764 |
| 売掛金 | 2,632 | 前受金 | 10,027 |
| 前払金 | 832 | 買掛金 | 2,444 |
| 土地建物 | 180 | 納税引当金 | 1,526 |
| 機械器具什器構築物 | 228 | 特殊整理費引出金 | 457 |
| 製造費 | 19,601 | 納税積立金 | 7 |
| 営業費 | 2,168 | 売上 | 11,846 |
| 蓄積処分額 | 2,860 | 雑収入 | 1,347 |
| 計 | 30,354 | 計 | 30,354 |
整理計画書の内容
今整理計画書の内容について参考に記述しよう。
(1)在外会社の住所、商号等に関する事項 (略)
(2)イ、債務の弁済に関する事項
計 3,168,258円(詳細は略)
ロ、弁済、相殺その他の方法により債務を免れる額ならびに支払の時期及び方法(本整理計画の認可後債務の全部につき全額を新会社に継承し、新会社において漸次弁済する。
(3)資産の処分に関する事項
イ、整理財産に属する資産の全額を新会社に出資する。
資産の合計 944,887円
処分見込仮額(時価) 6,918,258円
処分の予定時期 整理計画の認可あり次第速かに資産の全部を包括して処分することを必要とする理由(新会社は当該在外会社の現に行ないつつある事業をそのままの状態を継承する計画であるから資産の全部
を出資する必要がある。
(4)残余財産の分配に関する事項
イ、略
ロ、残余財産3,750,000円を株主の払込金額の割合に応じて分配するが、当該在外会社の払込資本総額937,500円の4倍強に相当するから株主に対し各所有株一株(12円50銭払込)に対し50円の割合で分配することとなる。その分配方法は新会社の株式(総数75,000株、一株の払込金50円)を以てすることとし旧株(12円50銭払込)一株に対し新株一株の割合を以て交付する。
4.新会社(日硬陶器)の資本金額375万円
5.新会社の発起人(前記の取締役全員)
6.新会社が継承する債務額 3,168,258円
7.新会社を設立する理由
在外会社日硬産業株式会社は昭和24年10月31日付を以て大蔵大臣より事業再開の許可を受け、同年11月16日より事業再開をなしたるところ、その後事業状態も順調に伸展し日本経済再建のためにも貢献しつつあるものなるを以て、本事業を一日も中絶せず、旧会社の株主を以て事業を継続すべく新会社を設立せんとするものである。
◇最近における資産及び負債に関する試算表(25年3月31日現在)前記新会社申請当時の試算表に掲げてある。
1.従業員 310名
2.製造予定数量 洋食器並びに皿類(標準)
1ヶ月製造高 252,000 個
1ヶ年 〃 3,024,000 個
3.収支予想
イ、収入の部
青筋8吋皿、合格品85%、単価18円(46,267,000円) 等外品15%、単価124円(51,710,000円)
ロ、支出の部
製造費 月3,650,000円(43,000,000個)
一般管理費及販売費 月550,000円(6,600,000個)計50,400,000個
ハ、利益の部 総利益金1,310,000円、純益450,000円、配当(年1割)後期繰越利益350,000円
ニ、一株の取得価格 正味財産3,848,000円、総株式数75,000株、一株の取得価格51円30銭
引渡し事務はどうなったか
以上のような経緯により、新会社日硬陶器は業務を開始し、日本硬質陶器の業務は停止した、したがってそれが何時整理を完了し、解散の運びに至るかということだが、結局28年8月、3年にして解散に漕付けた。
それにしても、引継、引渡しはそう容易くいけるものではない、労務問題、生産問題、株主の払込金における処置など、前回にも若干触れたが、記録などにより、その経過を記してみる。24年11月15日連合軍総司令部デイトン氏立会の下に長町事務所で日本硬質陶器社長と石原特殊整理人双方により整理財産引渡の覚書ながされ、ここに正式に授受手続きが出来たのである。日硬産業がその前月10月31日付で大蔵大臣より事業再開の許可を受けてから15日目であるが8月3日付特殊整理人に石原氏が選任したので翌9月26日引き渡し方を通知してから40余日である。その間日本硬質陶器では24年8月31日取締役春日幸人氏監査役畠栄三両氏の辞任に伴い、常勤取締役として新たに堤秀夫(経理担当)長原鉄吉の両氏を取締役に、監査役には取締役を辞めた神保泰一氏が就任及び鳥屋正秋氏就任した。而して11月15日引渡しを終了した後の24年12月6日臨時株主総会を開催し、越藤社長より左のような報告を行っている。
(イ)政令第291号公布に伴う業務停止に関する件
これは11月15日限り賃貸物件を返還した、その結果、同工場による当社の生産業務は同日以後停止せざるべからざることになった。外国会社たる日硬産業会社は政令により、当然整理清算せられ、この整理の結果、新に創られる経営体の新設会社が運営を行なうと聞き及ぶので新会社設立までの間を当社と日硬産業の共同経営により、維持し輸出業務の円滑なる運営を致したい。その目的のため次の点に関係各当局並びに石原特殊整理人との間に協議を重ねたのである。
1.日硬産業の所有する資産及び日本硬質陶器の所有する資産の勧銀評価の比率に従い決定しその割合により新設される会社の株式を両社に按分する。
2.日本硬質陶器の輸出の契約を履行するため両社協力し阻害なきようにする。然るに11月15日当局立会の下に賃貸物件を返還し、更に当社の所有物件を提供引渡したのであるが、当局より爾後の工場経営は日硬産業の単独経営とすべきよう指示があったので、当方の要望する共同経営は実現に至らず、かくて当社は同日以後生産に関与し得ないことになった。以上のような業務上の重大変革に対しては予め株主総会の決議承認をうくべき筋合であるが、本決定は11月15日引き継ぎ終了時に確定したため、またその後の見通しもたたぬのでこの総会で爾後承認をお願いするに到った次第である」
と、その他の重要事項も併せ報告するところあり、また本社を長町から金沢彦三8番丁5の10に移転することも承認した。越えて18日の役員会で越藤社長欠席のまま当面問題を協議したが、結局「日硬産業は一方的理由を述べて、負債の支払を肯んじないので賃金の不払、買掛金の未払を生じて困っている。これらの処理につき越藤社長や堤経理部長は石原整理人と直接折衝するのは、却て円滑を欠く惧れあり、交渉役を社長代理者という資格で神保監査役に弁護士の立場で委任し当らしめることとし、それで難かしければ賃金支払等を物品売却で処分しその資金を作るという回答を行なう」ということを承認した。しかしその後交渉役を一任された神保氏は、翌25年1月7日に開かれた役員会で交渉役は自分より、石原整理人と親交ある園酉四郎氏を調停役に依頼し、かねて園氏に硬質陶器の利益代表者として選定し、株主の投資額500万円の返還を確保し得るよう当日の引渡し資産の受取方交渉を一任した、ということで会社側も目的達成には石原氏に対し低姿勢というところ、しかし依頼された園氏もこの役員会に出席し金沢財界の援助も将来必要なことを述べて石原整理人を説得したようであるが、金沢財界では「石原氏の新設会社に対する構想が判らないので、協力に対する意向は未だはっきりするに至らない」という情勢である旨を園氏が述べている。
なお席上長原取締役(総務部長)から資産評価の進行状況を説明し「当社の債務支払ならびに株主への投資金返還に必要なる最小額として金1,000万円の追加保険契約を12月末から1ヶ月間東京海上火災と取結んだ。これにより保険金合計1,000万円となり、その他当社製品出荷したるものにて日硬産業扱いとなりたるもの300万円乃至400万円程度あり、万一火災焼失ありても、支払上支障ない、保険金額4万数千円のうち4万円にて引請ずみである」と火保契約を後日の為にとしてこれを明らかにしている。
ところが25年2月8日の第8回定時総会で、本社を再び交渉の都合上から長町に引返すことを決議した。
越藤社長辞任
そしてこの総会終了後社長越藤恒吉氏は辞任し、代って園酉四郎社長に就任した。越藤社長の在任期間は昭和23年3月26日就任以来24年11月15日まで経営を管理したが、遂に第8回総会を以て会社を退任することになった。なおこの賃金支払の方は24年12月28日、工員の賃金その他の緊急支払に充てる石原特殊整理人振り出しの約束手形を受け、その29日に支払っている。(この裏には石原氏の資金に対する苦しいやり取りの工面があることは察知し得られる)
次に硬質陶器500万円の増資払込による返還問題も、今話しの出た火災保険契約といった異例の用意などあるが、とに角結論として日本硬質陶器は多数従業員の引継と共に、この点に関しても、真剣そのものである。結局勧銀の評価を基礎にこれも解決して既述の配分となった。
又、労務関連の引継だが、石原整理人は、従業員の取扱いについては、その以前より日本硬質陶器では、特殊整理人に対し、生産維持、労働安定の見地から全員引継ぎ方申入れをしていたところ、24年8月におけるデイトン立会席上の引継事項で石原特殊整理人は越藤社長に
1.労働協約はそのまま引継ぐ
従業員は全員10月31日の給与基準にてそのまま引継ぐ旨話し合っている。ところが石原整理人は引継ぎ雇傭を11月16日付で打切り新規採用の申込を要求している。このことで日本硬質陶器側が石原氏にデイトン氏を通じ質すと次のことが分ったと硬質陶器側は当時の労組委員長沢田豊氏に報告している。即ち
1.石原整理人は「この処置は従業員の馘首を考えているのではない。また新規に採用する意志の下に行なったのではない。自分(石原)と共に勤務することを欲しない者をその人の意志に反して、そのまま無理に居留って貰うことが出来ぬから共に働らく意向の有無を確かめるためにとりたる処置であると明確に回答している。
2.当初の業務引継斡旋者中村金沢商工会議所会頭を通じ、当社が石原氏に引渡したる業務引継書が従業員名簿にはそれぞれの入社年月日を記載してその内には日硬産業(旧日本硬質陶器)会社従業員として入社し、そのまま現在に至り居る者が多数あることを明らかにしている。
3.日硬産業会社からの申出により当社と同氏が連名調印の上監督官庁へ提出報告したる別紙写の事業主変更届及び従業員の失業保険に就て日硬産業会社が関係当局になしたる報告によりて従業員は円満に引継がれたるものであることが明らかである。
4.これらの事実により判然するように前陳の根本趣旨に則り石原氏は今日まで本件の処理に特別の考慮を払いいろいろ善処しておられる次第である。採用申込についても前記同氏言明通りの趣旨のものであると諒解し同氏に信頼しているものである。
当方としても、石原氏にこの上とも協力懇談して事態が円満に而も各方面のご期待に副いたる解決が出来るよう努めたいと考えている。
と回答している。硬質陶器の労組あてのこの通告書をみると
日本硬質陶器に対立的意識はみられない、なかなかの協調ぶりでとに角整理を所期通り片づけたいということが分る。しかし石原整理人の方も24年9月21日引き渡し方通知してから引渡し期限を10月31日と指定し請求したが、実現されず、結局11月15日のデイトン立会の日に引渡されたということで、再三督促する一幕もあり、問題もあったが、結局デイトン立会の下この引継は完了した。
昭和28年(1953)
日本硬質陶器最後の15期総会
さて整理も順調に進んだ日本硬質陶器は8月29日第15期定時総会終了後の臨時総会で解散を決議したが、ここに29日の第15期定時総会は最後のものなのでそれを原文のまま紹介しよう。
本期は初めより業務決済時を期中の目標といたしまして極力これに努めましたが、依然財界の各種悪材料の影響に因り、逆にその成果をあげ得なかった事は、株主各位に対し申訳ない事で深くお詫び申し上げます。
本期の業績は主業務たる債権の取立は債権額に対する54%の回収にて好績とは申せませんが、他面常時の努力が功を奏し、その残額は近き将来に全額回収の確たる見透しを得ましたのでいよいよ待望の会社解散の運びとなりましたことを喜びとするところであります。
第2 事務報告(大要)
昭和28年2月27日第14回定時株主総会を開催 損益金処分案を承認
第3 貸借対照表(28年6月30日現在)(円)
| 資産の部 | | 負債の部 | |
| 未収金 | 179,764 | 資本金 | 5,000,000 |
| 受取手形 | 1,000,000 | 利益準備金 | 406,000 |
| 仮払金 | 44,009 | 別途積立金 | 12,000 |
| 現金及び預金 | 1,012,175 | 工場買取積立金 | 500,000 |
| 有価証券 | 2,000,000 | 退職積立金 | 5,000 |
| 前期繰越損金 | 3,050,543 | 貸倒準備金 | 370,093 |
| 当期損金 | 199,129 | 未払金 | 1,192,529 |
| 合計 | 7,485,621 | 合計 | 7,485,621 |
第4 損益計算書
当期総益金 171,530 当期総損金 370,659
差引当期損金 199,129(内予定外税160,380円を含む)
第5 損益金処分
前期繰越損金 3,050,543 当期損金 199,129
合 計 3,249,672
右を次期に繰越す
昭和28年8月29日
日本硬質陶器株式会社
取締役社長 園 酉四郎
取 締 役 市 川 潔
同 新 名 健 吉
監 査 役 神 保 泰 一
こうして昭和21年金沢で再発足せる日本硬質陶器は完全にその幕を閉じた、かくて園社長は28年8月31日付で8月29日臨時株主総会の決議により解散したとの解散通知書を発送した。また臨時総会では次の4項を承認清算人が選任されている。
1.当会社解散に関する件
2.清算人に園酉四郎、市川潔、新名健吉、神保泰一の4氏を選任する件
3.当社引継以降当社重役の職にありたる人々に記念品を贈呈する(清算人に一任)
4.手持有価証券の処分方法に関する件は新設される日硬陶器株のうち4万株を当社株式2.5株に1株の割を以て配分する。即ち100株に対し40株他に16円30銭の端数額を配分する。
整理果す園酉四郎氏
かように日本硬質陶器も新設日硬陶器に引継されたのであるが越藤社長が退いて、会社も全くの整理会社として園酉四郎氏が社長となり、その後仕末を行なった。その園氏に当時の感想を聞くと
「意外でしたね、なにしろ東京から越藤社長の使いの人が自宅へ来て、後を頼みますとの社長のお話しですが、書類をここへ置いていったので、書類を先ず長町の会社へ預けて正式に社長に就任、整理を始めたのです。そんなことで日々会社通いをしていたわけですが、何分建物は古くなっているし、その上在庫品で一杯積まれている、しかもこれを乾燥するため煉炭が2階の作業場へずっと並べてあるのでそこを歩いていると、みしみしと音がして今にも崩れ落ちそうな気配がしてハラハラしました。気の毒と思ったのはあの紛議で事務局内にも派閥が出来て、面白くないこともあった。私ももとからの関係でお引受けすることになったものですが、双方の意見をよく聞いて28年どうやら整理も運び解散総会へと漕付けました」
と語っている。
石原氏の心境 もっとおおらかな気持でやれば
石原氏の感想から
紛争後日の感想談
以上日硬陶器設立までの経緯であるが、係争一方の立て役者石原氏に、あの当時の感想をたずねると次のようである
もっとおおらかな気持でやれば
会社が三谷社長就任以来順調に発展して行き、全国業界で押しも押されもせぬNo.1に飛躍し、更に合成樹脂加工にまで触手しこれも立派な成功を見せていることは流石に三谷氏の手腕、力量とよき社長、当時私としてご推薦したことを喜んでいる。
さてあの頃の係争のことであるが、あのことについては自分も大いに反省している。例の在外資産の問題は、はっきりいえば会社が早くから手ぬかりなく使用許可を得ておれば何も問題とならない。極端に申せば、われわれの乗ずる隙もなかった筈です。
西川会頭とすれば、マア私の推測ですが、本件にタッチするには、それなりの動機もあるでしょうが、金沢伝統の産業である硬質陶器を生かさねばならぬそういうことで当面する紛争処理に当ったことに違いない。
私が特殊整理人を引受けるような情勢になるある日のこと、会頭は私に越藤氏を会長に迎えてくれないかといわれたことがあった。けれど当時2年間のあの苦しい経過を辿って来た感情のシコリはいかんともし難く、会頭の折角の相談もお断わりするようなことになってしまった。このことを後で冷静に考えると、金沢に育ち金沢財界のバックで立って来た硬質陶器を会頭の意向通り、会長に越藤氏を迎えていたならば、会頭という、公人としての立場も立つし、その他のすべての点で何かとスムーズに行く、従って会社も伸びる、実は私はそういう大局的のことを考えず、浅慮といわれても致し方ない、むしろ昔"まっくろけのけ"と唄にまで唄われた市民に親しまれた硬質陶器の経営については、もっと気持の持ち方を"おおらか"にしなければならない。そんなことになれば、金沢財界の方々のご援助も得られるであろうし、歪められた労働問題でもスムーズに運べられたと思う。この労働争議については経営者協会長の直山さんが私に対して、ご理解を寄せられ、ご協力を頂きましたが、今いうようにもっと大局を掴んで進んでいたら単に経営者協会ということから一歩進んで財界全体としても労組問題で何かご援助を得られたと思う。とに角私のやることは今にして考えれば浅慮というの他はない。また経営者内部のこうした争いも組合からみれば、経営者同志の争いであり、これに乗ぜられた格好でもある。日共の影響もあるが、経営陣として考えねばならぬ、いい経験でなかったかと思う。云々
争議に明け暮れする労資紛争
本稿は昭和21年以降31年にいたる硬質陶器争議を中心に記述せるものだが、大体次のような目次で稿を進めよう。
〔主な目次〕
1.戦前の労資対立 2.会社引継に伴う労務問題 3.資金関係について 4.地労委を煩らわす各争議の経過 5.不当労働行為提訴事件
1.戦前の労資対立
終戦後の日硬労働問題は、急速に180度転換せる組合攻勢を背景に、昭和21年ごろから、同31〜2年にかけ約10年という長い歳月であるが、揺れにぞ揺れしという深刻な争議絵巻を繰り拡げている。ところで戦前の日硬労働はどうか、すでに松風、香椎社長当時の労資間の紛争とは記述の如くだが、ストまで発展した様子はみられない。島田清次郎作品三部作の一遍「地上」に出てくる硬質陶器のスト騒ぎは、大正初期のスト騒ぎを想起させるものだが、とに角戦前でも労資激しい対立、不穏な情勢もあるにはあり、当時の新聞にもデカデカと報ぜられたが、ストらしいストは回避された。何にせよその頃は労働立法もなく、また警察の鋭どい監視下にもあるのだから手も足も出ない、今の組合運動とは凡そ比べられぬ弾圧が控えている。従ってストまでして目的を貫こうという条件を持たないし、また団結も容易でない。
それが敗戦後になるとがらり条件は変る。戦後大転換の日本の労働運動は、石川県における労働運動であり、また日硬の労働運動でもある、そういう新しい段階に立って、労組運動のご題目は、折柄襲いかかって来た食糧不足を中心とするインフレ下の経済闘争であり、昭和23年3月1日ゼネストに現われたような社会革命の思想闘争を含む反資本主義運動でもある。
それだけに経営陣もいまだ曾て無き苦悩を味わい、不安、動揺を禁じ得なかったのは疑う余地もなかったろう、終戦まもなく進歩的な経営者陣の間に石川県産業民主連盟という経済団体が組織されたが、これをずばりいえば、労働攻勢の恐怖に対する経営者の防波堤という意味で、自分ら経営陣も民主的に目覚めた進歩的な考え方で対処しようということに尽きる。とに角保守思想の固まりと見られるような、しかも県民は純朴で仏心に厚いという且っての世評の中から激しい労働運動が起るというのは、如何に"御時世"とはいいながら、経営者陣にとりその厳しさを骨の髄までしみ込ませるようなその頃の様相なのである。そして県内有力な事業場には、絶えず赤旗と争議の闘争が見られたのである。すなわち昭和21年6月から22年6月に至る県内争議件数は23件4,717人うち生産管理含む3件であり22年9月以降争議 小松製作、北陸貨物、津田駒工業、日硬等が主なものである。
昭和23年(1945)この年はインフレを反映する賃上げ要求熾烈で、中でも小松製作所の争議は最大スケールである、争議件数は22年7月から23年6月の一年間に77件その人員41,117名に達し前年の件数3倍人員8倍に達する。
かような情勢下にあって、当の日硬においても、22年8月における争議発生を最初として、昭和32年頃まで幾つかの紛争が生じ、そのうち地方労働委員会の斡旋を煩らわすものも見られている、今これら主なものを年月順に掲げると次のようなものである。
1.22年8月 スト
2.22年12月 解雇取消の申込に対する地労委勧告
3.27年末から28年3月に至る闘争
4.28年12月 (越冬手当)
5.30年12月 いわゆる山猫スト
6.31年2月 不当労働行為事件(32年1月解決)
しかしこの最後の不当労働行為問題の解決を契機として、今日まで争議発生は一件もない、もちろん地労委を煩らわすほどの問題も生じない、いわば雨降って地固まるというか、それとも労資共に成長して大人になったというか、否、企業の急テンポの発展ぶりは、少くとも従来のような、給料の遲配、欠配などから起る、直接生産を脅やかされる争議は過去の記録になってしまっている。
ベ・アの出来る事業、配当安定の出来る事業となり、それらを背景に団交も労資話し合う場として、スムーズに運んでいるというふに変って来ている。
組合主脳部の回想
一日編者は労組の新旧幹部の主脳部に会い、あの激しかった闘争時代を忌憚なき感想を聞かせて貰ったのであるが、交々次のように語っている。
----それは何んですよ、当時の執行部中には、日共の指導下で意識的に動いていたということも否定出来ないでしょうが、幹部全員がそれで動いているというのではありません。何しろ給料の遅配、欠配がある、頻繁にやってくると・・・・・そうですね、月に9度の分割払いということもありました。それでは従業員もやり切れない、組合幹部に突っ込む、幹部は下から突き上げられれば、会社の苦しい事情は知っていても、しつこく要望せざるを得ない、それでどうやら支払われた給料は文字通り手から口へということになるのですから、すぐ様米代や何かとふっ飛んでしまう。当時のことですからイデオロギーもないとはいい切れないが、実情は生活問題が根本です、純経済闘争、生活闘争ですよ、会社の金庫には金の無いことも知っている。石原社長や会社幹部が、その金策で苦しんでいられることも分っている。何しろ手形を貰っても随分長い期限であり、それを銀行がなかなかに割ってくれない、今でも思い出すのですが、亡なられた村松支配人、そして荒木さんなど、金ぐりから会社へ帰って来て組合の連中に顔を見られるのが嫌さに、よくパチンコ屋へ這入っていてそれで時を過していたという話も伝えられるほど経営者側の苦しさも分る。でも結果は従業員の働らく意欲を失わさせる、気が荒立って来て争議を起さざるを得ないというのです、その頃西に日硬、東に北鉄なんていわれましたが、こちらは貧より辛いものはないという闘争ですよ、石原さんが辞められ、三谷さんに社長になって貰おうとする時、三谷さんにも不満な従業員もあった、というのは、三谷さんも会社立て直しの条件には、ベースダウンをしなければならないという考え方ですからそのように冷たく三谷さんをみる者もありました、でもやっぱり三谷さんを推さなければ、ならぬというのは、三谷さんになって貰えば、安心出来る。三谷さんは、一切自分に委せよ、2ヶ年は休戦して共に会社をよくしてい
こうと、こう組合員に話されることも、信頼性があったからです。三谷さんを社長にわれわれもお願いしたのは実はそんなところがあったのでないでしょうか----
こうなるとさしもの争議も金ぐりということになるが、はたしてどういうものか、それにしても激しいものであり、各争議共いずれも喰うか喰われるか両者死闘という感じが現われ、就中30年の山猫争議の場合や、31年の不当労働行為事件において、両者の地労委ならび中央労働委に呈出した激しい文書の応酬内容をみても分る、31年の不当労働行為事件の、中央委に再提訴されたときの石原社長の申立の中の、次の一節を掲げよう。
----組合員は争議時において多勢をたのみ、会社側に対し、あらゆる聞くにたえない罵詈雑言を恣いままにし、あまつさえ、暴力的行為に出るが如き、常軌を逸した正常ならざる組合活動を行なった場合においても、使用者は一言半句何事もいえないのでしょうか、争議中の如き緊迫した環境において、双方互いに感情にはしり、また不穏当な放言がなされたとしても、使用者側の言辞のみが一々とり上げられて不当労働行為に結び付けられるとは、如何にも納得のいかないことであります。申立人らは組合活動は総てに優先する至上のものとの観念を以て今日まで行動してきた誤謬を指摘し強く反省を促したいと思います」云々とその憤懣を語り、解雇者側は解雇者側で例えばここに申立人の一節を掲げるが如何にも言うことが戦闘的である。
----以上の如く申立人らが、組合の中心勢力とされるようになって以来、頓に強化された組合に対し、被申立人会社は、これを忌避してしばしば反組合的言動を種々なしていたが、特に昭和30年12月年末争議における経過が深刻となるや、いよいよそれを露骨にし公然と申立人達が接する折は、組合活動に対し、敵意と憎悪をもって、誹謗と威嚇と思われる言動を発し遂には「組合の行儀直しが、必要である」とさえ言明した。この言動は積極的な組合活動分子を報復的に解雇しもって組合の弱体化、御用化を計る意図を意味するもので」・・・・・下略
2.会社引継に伴なう労務問題
労資対立の結果、両者が解決策として地労委の手を多く煩らわす段については、この項目の後で記すこととするが、本項は昭和24年11月15日日本硬質陶器から日硬産業へ生産の支配権が、引継ぎされる間に起った労働関係事項ですでにこれらの大要は、述べてある通りであるが若干之を附記してみよう。
(註、この関係記事は当時の総務部長津田義雄氏談に負うこと多し)
昭和24年11月、会社引渡しの際で一番問題になったのは労務関係であるが、その中で次の点が論議の中心となった。
1.現業従業員の身分問題の取扱い
2.越藤社長時代の賃金支払問題
まず第1の問題については、(註、前項引渡し処理に関連する記事を参考)引続き採用されることを希望する者は採用するとのことで、落着し、その旨少し後であったが、皆から一札を取った。しかし、いざ署名するとなると、疑心暗鬼といおうか、なかなかに署名のまとまりがつかなかったが、どうやらまとまった。その時越藤社長と運命を共にしたのは、取締役経理部長の堤秀夫、同総務部長長原銑吉両氏であるがこれは已むを得まい、日本硬質陶器側としては以上の両氏を除いて、全員を引継ぎ、その生計に不安なからしめぬようにする要望を石原社長において、充分諒解されたことであった。ということで、上述の採用希望の者は全員採用された。
さて引続き採用となると、退社の場合、退職金の基礎となる入社年月日をどうするかが問題点となる、折衝の末これは本人が戦前の日本硬質時代に入ったものや、日硬産業時代に入った者はもち論、その後の採用者もすべて事実上の入社年月日とすることになり、将来退職するときの勤続年数は、その時から起算することにした。
そうなると、経営者の変っていた間の退職金の基礎賃金の計算が面倒になるので、当時の就業規則にある計算方法ではむずかしい。そこで新たに退職金規定を制定することにした。実は労働協約は、経営者の更迭で無協約なのだが、それも初めは難しい問題だったが、後やっと解決した。
退職金制度
退職金制度については、その後当時の津田総務部長らが、名古屋や県内工場の実態を調べ、新しい立場にあって、石原社長の示した枠内の金額と方針に従って立案、組合側と数多の交渉を経て、結局は地方労働委員会の斡旋で28年4月妥結した。
第2の賃金は、事業引継ぎの形が、普通の経営者交替と違うところが、労組側の不安の種となり、受け入れられず監督官庁にも諒解されなかったところに問題があった。普通であれば、当然引受会社である日硬陶器で支払って然るべきであろうが、今ではそうでなく、しかもこれを誰も納得してくれない。とうとう労組の申立により、G.H.Q名古屋駐在労務課長ウォーカー氏によって、裁かれることになった。だがウォーカー氏も詳しい事情は判らない。それで石原社長を名古屋へ呼び寄せ、問い糺すことになったが、社長出張不在のため村松支配人と津田総務部長が代って行くと、日本硬質陶器の越藤社長のほか、県労働監督署長、同労政課長らも同席している。まずウォーカー氏から、日硬陶器で支払うべきことを勧告した。これに対し村松、津田氏らはこのことはすでにC.P.O(民間情報局)で硬質陶器の方が支払うということになっている旨話しをするとウォーカー氏はG.H.Q内のこと故、それで判ったと諒解、監督署長もこれを諒解し、爾後硬質陶器で支払うことに解決した。
労働協約の締結
次に起ったのは、労働協約の締結と就業規則の改正ということであった。前者は当事者の一方がいなくなったことと期限が切れているということであった。後者は法的には使用者が変ったという扱いしか出来ないので、ある意味ではこれでもよいのだが、石原社長の方針と違うところが多かったので、それを改正する要があった。そこで両者をねらっての団交は数十回行なわれた。ときには作業中に、ときには作業後に、組合側からは組合長や委員らの数名、会社側からは村松支配人、津田総務、藤原営業、荒木資材課長が主だったが、組合側は交渉中に委員が変ったりしていた。そして2年近くも経過したが却々協約は成立しない。もち論双方とも案は互いに交換してあるのだが、これではまとまりもつかずと妥協したところだけを就業規則の改正に踏切り法通りの改正の手続
きを行なった。(28.3.21就業規則発効)
24時間制を12時間制に
従来、製土、焼成両部は作業の性質上、24時間制であった。これがため、従業員の過労が生じ、夜間傷害事故が絶えず、これが労働基準法上、監督署長の保険支払に制限を受けるに至った。よってその勧告に従い12時間制に改めるため、組合と折衝したが、組合は設備不良を理由として聞かない。しかしその以前、会社は傷病カードを作成していたのでこれにより作業中の疲労が重大となっていることが判明遂に24時間制を廃止して12時間制とした。昭和27年7月トンネル窯が出来たとき、初めての12時間制により行なったが、現場員の主張でやむなく変則24時間制をここだけ採用した(27.7.30)
非組合員の決定
労組側との交渉が複雑となるに従い、従来主任と称していた課長につぐ職になるものを非組合員とする方針をとり、これを係長として非組合員たるの資格を与え、組合側と交渉して非組合員とした。組合はなかなかこれを容れなかったが、結局は認め同時に事務職員中非組合員に入るものも若干あった。
1.工場の就業時間
大正年間の工場就業時間は
就業 午前7時30分(冬期7時)
終業 午後5時 (冬期5時半)
休日 1日、15日の月2回
休憩 午前9時30分から15分間
午後から30分間
午後3時から15分間
大正末期は 休日第1、第3日曜日
そうした状態は戦前ずうっと続いた。製土、焼成両部のみは24時間制だった。しかるに戦後は労基法の制定で8時間制となり、そして当初拘束8時間であったが、その後8時から4時40分までの内、休みは正午40分間となった。そして途中の散髪するものの時間はなくなってしまった。戦後電力事情の悪化で休日は毎月曜日になっていたが、その後の好転で段々日曜にすることが多くなった。
1.停年退職者の取扱い
就業規則及び旧労働協約により停年55才となっていたので、石原社長はこれを退職金規定により実施に移した。これらは殆んど大正時代からの勤労者で、石原社長の金沢支社長時代入社した者や、それ以前からの入社者が多く、何れも最初は石原社長を支持していた者であったため彼らのショックは大きく該当者は反対したが、交渉数十回結局実施され27年9月退職金支払は一部分分割払の形で支払われた。
1.賃金規則の大変改
賃金は従来すべて日給―基本給―生活給的なもので、一部生産にスライドするものがあったが、それは成型部のみで、その他は全体的の窯出成績によるものであるが、成績は香しくなく、生産は極度に落ちた。
そこで従来の総支払枠―基準賃金のみ―を6・4に分ち、前者を生活給、後者を生産給とし、生産給は職場により個人的にまたはその職場毎にスライドさせることにした。これについて相当課長中にも異論が出たし、当時金沢でそうした新らしい制度とてはなかったが、経営者協会、監督署、地労委とも連絡して各地の資料を集めた結果、日本タイプライターのものを基本に当工場の実情にあてはめ、組合と数十回に亘り曲折の後、漸く実施に移したために計算方法が複雑となり、労務担当職員の労が多くなったが、タイガー計算器を採用することと職員の努力で漸く目的を達した。そのため生産給は基準賃金の4割以上となり、実質的に個人収入が増加するとともに、工場全体の生産も向上したので増産給も支給されることとなり、双方ともよくなった。しかし生産給の算出基
礎となるべき個人能力の数字に狂いがあって、修正したものもあり一部問題化したものもあった。
かくするうち金融関係が悪くなって、2回以上の支払いに分割するのやむなきに至り、生活給は20日〆切で30日払、生産給は翌月10日払の形をとった。
こうした賃金問題は根本的なものがあっただけ、事の無い時は何でもないが事ある時は面倒で専門家には感心されたが、一般には、面倒がられる仕末で向上した生産能率の原因の大きなものに賃金問題のあることも忘れられてか、遂には地労委の辺まで批判せられるに至った。(昭和32年石原社長が辞任前組合に提示したいわゆる4千円賃金カットはこうしたいきさつの中に提案されたのである。)
資金関係について
苦しい分割払い(27年の場合)
ところで問題の賃金関係について、27, 8年会社の賃金支払状況を、当時の津田総務部長のメモから記し上記争議とからんで、参考に供しよう。当時如何に会社が経営不振、金融難に苦しんでいたかが分る。
◇昭和27年賃金支払状態
26年の暮の越年手当支給は1月の約束だったので 27.1.25支払った。
2. 9 係長の生活給1月分の残額支給
2.10 生産給の支給日だが金ぐり悪く支払い出来ず
2.28 生活給の4分1払う
3.19 生産給の2分1払う
3.31 生活給の3分1払う
4. 8 生活給の3分1払う(係長を除く)
4.16 係長以上の生活給の一部支払い
4.22 3月分賃金のうち生活給の残3分1支払
4.25 生産給2分1支払(係長以上除く)
5.10 生産給支払出来ない
5.13 残2分1支払い(係長以上は3月の残)
5.17 一部支払い
6. 5 4月分生産給残りと5月分生活給の4分1支給(但し5月分のは組合員のみ)
6.20 組合員に500円あて支給
7. 1 5月分賃金の残りの内3分1支払う(係長以上4分の1)
7. 5 生産給の残り支給
7.10 生活給(6月分)の3分1支払い(係長以上は先月の残り内大半だが未だ5月分一部未払)
7.12 生活給の3分1支払
7.19 生活給の3分1支払
7.26 係長以上生活給支給
7.30 生産給残り支払(6月分)
8. 6 7月分生活給の内一部支払(係長以上は6月残を保留して7月分のうち3,500円を払う)
8.13 一部支払(係長以上6月分のみ)
8.21 一部支払
10.18 夏季手当の3分1支払
10.23 係長以上に計5,000円支払
10.25 生活給の残全部と生産給の一部30万円支払(組合員のみ)
10.30 生産給の残り支払
11. 1 9月分賃金の残り支払
11. 6 工員に30万円(10月分生活給の内第1回支払)
11.20 工員に残りの2分1支払
12.17 生活給の残と生産給の一部支払(係長以上に上半期季末手当支給)
12.20 11月の残り支払
12.25 年末手当支払(5割を松の内に支払)
12.29 12月分生活給支払(全額)
28.1.14 12月分生産給(組合員のみ)
1.31 1月分生産給(全部支払)
2.11 1月分生産給(全部支払)
3.14 2月分生活給支払
3.18 生産給全員支払
以上のような賃金支払は5割遅配である、遅れる時はその都度団交あり、これがため、三日にあげず、団交に出るという仕末、それも多くは時間外にやるので疲労も加わり、会社当事者もなかなか苦しいが、村松支配人と津田総務部長が主として当り、時には藤原営業部長、荒木部長が二人に代ることがある。
今、27、8年におけるこれらの推移を年月順序の記録を拾い参考に供しよう。
27.3.20日 会社の労働協約案出来、関係者に配分
27.3.21日 新中卒15人の入社式(26年も行なった)
27.3.27日 賃金規定改正案出来
27.5.23日 トンネル窯No.1は27年1月27日現場に元あった、大井戸の埋立式に初まり6月18日火入式を行なったが、その電力については従来のものの外に、その休電中を補うための別の予備電力を必要とするので、27年1月22日初交渉以来、北電と交渉数回、27年5月27日になって工事費として63,000円を納め27年5月23日50キロ専売支局線のを延長して実施した。
27.6. 3日 賃金協約成立し翌4日労基署へ届出た、その有効期間は6ヶ月とし爾後6ヶ月毎に更新
27.7.30日 トンネル窯の変則24時間制実施届出
27.9.20日 停年者退職者実施
27.9.24日 同上者9月分賃金概算払
27.10.6日 協約のまとまった分調印
27.10.9日 就業規則審議
27.12.3日 地労委あっせん申請
27.12.6日 妥結
28.1.23日 退職金規定案組合へ交付、検討始む
28.3. 2日 停年退職者手当につき地労委へあっせん申請
28.3. 5日 地労委より調査来社
28.3.20日 就業規則改正に労組同調
28.3.21日 新規則発効
28.4.15日 退職金規定あっせん案を基本にして村松支配人主となり組合と交渉
28.4.28日 27年9月停退職者へ一部退職金支払
28.6. 4日 津田総務部長退職
地労委を煩わした各争議の経過内容
以下争議における各経過を地労委の報告を中心に記してみる。
◇22年8月スト
昭和22年8月、組合は会社に対し
1.賃上げ
2.欠配手当支給
3.一部重役の退陣要求
の3項目を提げて会社に要求、闘争態勢に入った。当時会社は、釜山本社(日硬産業)を解散し、金沢支社を資本金14万円を以て、旧会社名称の日本硬質陶器を設立、社長に村松茂友、専務取締役に三田徹夫の両氏起用されたが、相確執して(別項記載)如何ともしがたいところまで進んだ。組合は、その間隙を縫うて立場を強くし、以上のごとき要求を突きつけたのである。しかし会社側の拒否に会い、ストに突入したのであるが、同年9月2日、石川県地方労働委員会の石原堅正(中立委員)財満久芳(使用者側委員)越島久米三(労働者側委員)の3氏斡旋員となり、次の調停案を9月5日双方受諾調印した。
1.会社は8月及び9月の2ヶ月は臨時危機突破反省を含み、平均収入税込み2,600円になるよう支払うこと。
2.会社はスト中の賃金は前項日額の8割を支払うこと。
3.組合は神田靖、田中益彦両取締役、大村工場長の退陣要求は白紙に還元して、社長に一任する。社長は組合員の意志を尊重して経営民主化のため善処すること。
4.会社は公約の争議に関係せる組合員中より犠牲者を出さないこと。
5.今後10月以来の賃金問題、生産増強、又民主化等の問題を、経営協議会において、双方誠意を以て審議する。
6.直ちにストライキを中止して、生産を開始すること。 (以上)
◇昭和22年12月 地労委勧告の件
----急進組合員除名解雇取消の申立に対する地労委の調査ならびに勧告について----
この紛争は組合内部の問題から起ったものである。
昭和22年11月、全日本化学労働組合日硬分会の組合員であり、日本硬質陶器の従業員であった株田正勝、小山陽子の両名が、賃金査定問題に関する組合執行部の行動方針を批判する、アジのビラ、ポスターを工場の門前その他職場に貼付けた。組合はこれを以て、組合規約の統制規定に違反すると見做し、組合大会において、除名を決議し、且つ労働協約の規定により、会社から解雇されたので、株田・小山の両名は、昭和22年12月石川県地方労働委員会に対し「除名は組合御用幹部が会社と結託して、組合の急進分子である自分達から除
名解雇したものであり、かかる除名解雇の措置は、取消さるべきであるから、調査願いたい。」旨申立てた。よって、委員会事務局に対し、調査を命じた結果、組合幹部と会社との結託の事実は認められないが、組合規約の運用ならびに除名問題の、取扱いにつき、自己批判の余地なきを得ない旨、調査の結論を、23年1月20日開催の、地労委総会に報告し、総会では、審議の結果、勧告を組合に対し、行なうことに決定した。そこで組合は、勧告に基ずき、自己批判を行ない、両名の除名と解雇を妥当とする旨、再確認したる旨、委員会に回答を提出したので、委員会は自主的労組の自主的決定は、尊重さるべきであるとの結論に基ずいて、その旨両申立者に通告して、本調査を終結したのである。
◇昭和27〜8年に亘る紛争
昭和24年8月1日、政令第291号により、特殊整理会社として告示された「在外会社」日硬産業(株)は10月31日付で業務再開を許可せられ、11月16日から業務を開始した。さて石原社長の下、業務開始となると、これまでのものを、転用・採用の形で新採用したが、当時官庁関係の書類は、手続きを簡略にするため、名称変更の形式をとったが、実質上健康保険・労災保険・失業保険は共に24年11月16日を境として両社別箇に支払った。
11月15日以前の賃金その他の給与・退職金等の支払いに関し、従業員側と、会社側との間に継続等の問題で見解を異にし、当時の石川軍政隊へ持ち込まれて審議された。11月23日付で日硬産業特殊整理人石原逸三氏と日硬陶器労働組合との間に、勤続年表、労働条件継承に関する覚え書が結ばれた。会社は終戦後から、昭和27年頃まで経営陣は変更され、村松社長から越藤社長へと移り、この間会社継承についての争いがあり、その中にあって組合は経営者と昭和27年10月20日から退職金規定について交渉を続けて来た。そして両者24回に及び交渉を行なったが、妥結に至らず、昭和28年3月2日付で組合より地労委に斡旋を申請した。更に斡旋開始後、停年退職者で成る日硬陶器退職同盟(21名)から「未払退職金即時支払について」の斡旋申請があり、組合からも3月17日付同問題について追加申請がなされた。更に4月3日に至り、会社から「賃上げ要求に対する斡旋申請」がなされた。これは組合から2月10日に現行基準給平均7,360円を12,276円に2月度より実施せよとの要求があり、団交を重ねること17回、スト4回(84時間)に及んだが、自主解決の見込みなしとして斡旋を申請したのである。
◇調停の経過
地労委は3月2日組合からの退職金規程について、申請を受けるや直ちに大沢由松・河合清吾両斡旋候補者を斡旋員に指名して、3月10日より斡旋を開始し、事情聴取の結果、調整の問題点を
1.勤続年数通算について
2.退職手当支給率について
3.昭和27年9月以降停年制実施を理由とする退職者に関する退職金精算支払いについては本規定の問題として取扱う。
4.右以外の細部的意見不一致点は、これを当事者交渉において解決するものとする。
上記の調査方針により、3月20日第3回、同26日第4回に亘り、斡旋員会同して事務局調査に基ずき勤続年数を通算しない。支給率は会社支払い能力を併せ研究すこととし、昨秋の停退職に対しては、停年制実施の一方的不意打的経緯もあるので、別途会社負担能力と併せ考慮する。次いで3月30日第5回の斡旋においては、自主交渉を続けている、賃上げ問題は、決裂状態に対し、数日来ストライキが実施されており、従来会社組合に採用して来た「退職手当規定問題は、賃上げ問題と切り離し早期解決する。」との態度が維持出来ない事情にあり、双方共に資金問題の解決を急ぐため、退職金問題のみの調整解決は困難であることを認めた。4月3日会社は賃金問題に関する斡旋申請をしたので両問題は併行調整と、同時解決する方針で、斡旋を進めることになった。退職金規定についての双方の主張をみるに組合は、
(1) 勤続年数は戦前戦後を通算すべきである。
(2) 算定基礎を基本給とすべきである。
(3) 30年停年退職者に対し約50万円とすること。
これに対し会社は
(1) 勤続年数は在外会社であったからその時代は今の会社とは別箇であり通算出来ない。
(2) 算定基礎は原給とする。
(3) 30年停年退職者に対し約20万円とすること(註、基本給=原給=勤続給)といっており会社では現在の経営状態から見て組合の要求は無理であると主張した。
4月4日第6回、4月5日(第7回)の斡旋においては会社経理の実情ならびに賃金関係について精細調査を実施するとともに個別折衝をしつつベースアップの可否等について、徹宵検討し引き続き6、7日3日間に亘り、検討をしたが、その結果漸く次の斡旋案を提示することとなった。4月7日午前8時である。
斡旋案要旨「賃金問題に対し」
1.従業員の賃金のうち生活給を4月分より一人平均5,230円に改める。
2.現行生産給制度に改訂を加え運用の簡素化を図るよう双方協議する。
3.会社は従業員の協力と増産への努力に対し、臨時手当として一人平均2,000円を4月より4回に分割月額500円を支給する。右支給に当っての各従業員への配分は双方協議する。
4.組合は会社経営の深刻なる現段階に処し企業再建のため月販売高950万円達成につき、一段の協力と努力をする。
5.会社組合の双方は、来る8月分以降の賃金につき、会社経営の実態に即し誠実をもって且つ平和的に協議する。
6.会社組合の双方共本争議の解決に当り相互に信頼を深め既往のゆきがかりを白紙に返す。
◇退職金規定に関する斡旋案の趣旨
組合案を参酌の上会社案を概ね左の如く補正した。
1.会社案では、昭和24年11月15日以前に採用され、同年11月16日以後、引続き特殊整理期間中に勤務し、自己の都合で退職したものに対しては、会社規定を上廻る特別措置支給率を適用することとした。
2.会社案では昭和21年3月20日以前に、勤務した者に対しては、勤続2年に付、1ヶ月 (30日)とあるを「日額・月額・本給に3を乗じた金額を同日以後に勤続した者に対しては勤続1年に付2ヶ月(60日)とあるを日額・月額本給に1.5を乗じた金額を基礎金額とすることに改めた。
3.会社案では整理解雇等の場合、3年未満の者には、3年以上の者の支給率の90%とあるを100%に改めた。
4.本退職手当規定における、勤続年数の延算は、昭和21年11月16日よりとした。
5.会社案の勤続年数の支給率を、上廻るものに改めた。
6.昭和27年9月以降の、停年退職者に対しては、本規定を遡及適用することとし、仮払金額と差引精算支払いすることとした。(21人分仮払総額85万円本規定による精算額150万円)
右両斡旋案についての回答は、退職金規定については、双方共受諾妥結したが、賃金問題については、会社は受諾し、組合は拒否した。しかしその後、斡旋案を基準に自主交渉により妥結した。
◇28年12月の越年闘争(地労委斡旋)
28年暮近く組合は越年手当で、要求が容れられぬので、12月3日から6日に亘りストを行なった。当時組合員は男162名女88名計250名で執行委員長は北川辰治氏である。組合は石原社長に対し、11月13日1人平均15千円の越年資金の要求書を提出し、会社の回答期限を11月20日までとした。会社は11月19日に至り、種々の事情から、12月10日に回答する旨を、通知したが、11月20日に団体交渉で組合はそれでは遅い、11月25日にせよと主張、会社は30日と互いに意見対立した。そして25日第2回の団体交渉で、組合員は回答書を了承したので3日会社は6,500円の回答をした。組合はこれに納得せず、その後12月3日まで再三に亘り、団交を重ねたが解決に至らず、組合は大会においてスト権を確立し、更に12月4日地労委に解決を申請した。よって委員会では、斡旋員に米村貞知(公)雄谷一郎(使)後藤秀治(労)の3氏が指名され、翌12月5日午後4時から会社と斡旋員集合、同8時団交を開始、徹宵斡旋したがまとまらず、会社側は翌6日午後2時になって7,500円まで譲歩したが、組合員の容れるところとならない。そこで委員会は同2時半になり、8,600円案を指示した。組合側はこれでも不満の意を表し、再び斡旋を要求したが、斡旋員の説得により、年内支給を条件に組合はこれを受諾した。また会社側も午後8時に至り、この案を呑み、さしもの争議も解決してストは終った。斡旋案左の通り
〔斡旋案〕 組合から12月4日附斡旋申請された越年資金の件に関し、斡旋員は諸般の情勢を勘案し、慎重に審議せるも、具体的条件について、遂に労資の斡旋員の意見一致するに至らず、公益側斡旋委員として、独自の立場において、本斡旋案を提示するから会社・組合双方共に不満は認められるるも、本件の誘発する事態に思いを致され、速やかに本斡旋案を受諾し、紛争を解決し、会社の業績向上に協力せられるように勧告する。
〔記〕
1.会社は組合員に対する越年手当として、一人当り8,600円を支給する。但し配分に当っては、会社組合協議決定する。
昭和28年12月6日斡旋員米村貞知
昭和30年暮の10割合格サボ
昭和30年11月8日、組合は15,000円の、年末手当要求を行なった。会社はこれに対し、3,000円の回答を為して譲らずその解決は難航を続けていたが、12月2日組合は、会社に「6日午前8時より24時間ストを行なう」旨通告したが5日夜の団交でも会社は、3,000円の原案を譲らなかったため、通告通り、ストに突入することになった。なお、6日も午前10時から再度団交したが、物別れとなった。10日会社側は4,000円に譲歩したが認められない。そして16日から、無期限ストに入ろうという組合は、100%合格運動という一種のサボ戦術で、回答の4,000円を拒否し続けた。年末一時金調停としては、初めて乗り上げた暗礁で県下でも、このようにこじれた例は少ないという。北村委員長の言い分は、
「生産は上っている。多い日は45万個、平均して40万個も出している。今になって出血生産だ、今期の赤字210万円だと、いわれても納得が出来ない。」と会社の非を鳴らせば、会社側も負けていず、40万個ということはない。多くて36万個だ。生産は上っているが、その7割は輸出であり、それも全くダンピング同様で、収益の見込もないから、銀行も金を貸さない。血を絞る思いで、3,000円を回答し、更に10日には4,000円に譲歩した。組合員の気持はわかるが、これ以上は出来ない。無い袖はふれぬと、強調している。11月8日組合は要求を出したが、250名の組合員はしびれを切らし、労組執行部の指令をまたず、一種の生産サボ戦術を始めた。作業をていねいにして不合格品を一品も出さぬ戦法であるので、だれということなく「100%合格運動」という名がついた。ある職場によっては、7、8割も生産が落ち、全工場は半減(会社は5割減という)した。これには会社も手を焼いたかたちであるが、組合員の作業に対する意欲は、頓に落ちていることは事実である。組合は更に石原社長ら4重役の自宅を毎夕のように4、50名が波状陳情しており、その附近の家々に、窮状を訴えたチラシを投げ込み、協力を呼びかけている。更に会社の道路に面した板塀に「3千円では喰えぬ」といった小さなビラを約2百枚も張り出して大衆に訴えている。
昭和30年11月8日、1万500円の要求を受けて以来、団交を続けて来た会社は、12月15日午後県地労委に対し、斡旋を申請してどうにか解決した。
大量解雇に端を発す
不当労働行為闘争
昭和31年2月17日、会社は営業不振を理由に、73名の従業員に解雇通告を発した。この解雇をめぐって、組合執行委員長ら9名の名で、これは労組法規定違反の、不当労働行為なりとし、石川県地方労働委員会に申立てた。地労委は事件の重要性から約1ヵ年に亘り、多数の証人等を喚問、慎重審議の結果、会社側の解雇は、不当労働行為でない旨判定し、申立人らの申立は棄却された。
しかしこの不当労働行為の地労委を舞台とする申立側、被申立会社側の間における不当、不当に非らずという対立意見は、客観的には経営者側と左翼急進分子との必死の対決であり、深刻複雑な様相を呈し、その成行は、第3者でも、非常な注目と関心を払ったものである。しかし、この激しい左右闘争をヤマバに、会社の労働運動は一転回も二転回もして、爾来今日に至るまで会社の労資間は、団体交渉こそあれ、至極円満に、今日に至っている。ストもなければ、わざわざ地労委を煩らわすという、面倒なこともなくなった。いわば雨降って地固まるの譬えのごとく、移り変って来たのである。そういうことで、この事件は、石川県労働史上でも、注目すべき稀らしいケースなので本欄では、一応その発端における経過を記し最後に地労委は申立を棄却する理由につき、述べてあるがその本文は14枚14,000字に及ぶものである。
問題の経過
昭和30年暮の激しい越冬争議は、山猫ストにまで発展する執拗な労資の確執であったが、どうやら、地労委の斡旋で解決した。けれどその後、業界は依然沈滞を極め同業各社共、操短等の対策考慮の已むなきの事態に立ち至った。会社はこれに加うるに、前回の争議による生産出荷の阻害もあって31年1月末の仮決算では、700万円の欠損を生じたので、遂に人員整理を行なうことになり、昭和31年2月17日付で北村執行委員長ら73名に達する、従業員の解雇通告を発したのである。この通告をめぐって組合側(241名)はこの通告を受けるべきだとする者と、飽くまで反対すべきだとする者との、深刻な意見の対立を来たしたが、会社の処置はやむを得ないとする意見が大勢を制し組合決議として、承認するまでに至った。しかしこれを不満とする北村委員長らは、第1回8名、第2回1名の名で地労委に、この解雇は労働組合法第7条第1号の規定に違反する解雇であり、いわゆる不当労働行為であるとして
1.組合運営に対する支配介入の排除
2.2月17日付解雇の取消し、原職復帰
3.解雇取消までの各種賃金の支払い等の救済を求める申立を提出した。
この件は、当時労資間におけるもっとも稀らしいケースであり、地労委も慎重に審査の上、6月12日労資関係者を集め、第1回審問を行ない、解雇の経緯について、仔細に調査をした。以来地労委は、証人喚問30名、審問27回に及ぶ県下としての、もっとも規模の大きい、不当労働行為事件として、両者の主張するところを注目したが、翌32年1月26日、地労委は北村執行委員長ら申立人の申立を却下し、主文は「本件申立はこれを棄却する」ということになった。これに対し申立人らは不服となし、中央労働委員会に再審査申立を行なったが中労委で再審査過程中に自立和解が成立し、事件の取下げとなった。
命令書
申立人 (1) 北村辰治以下氏名7名略
申立人 (2) 天池辰雄
被申立人 (1)(2) 日硬陶器株式会社、右代表取締役社長 石原逸三
右当事者間の昭和31年石労委不第1号、同第2号不当労働行為合併事件について当委員会は昭和32年1月26日開催の第160回公益委員会議に於て、公益委員米村貞知・越野菊雄・清水兼男・乾健多朗・岡村孝一出席し合議の上次の通り命令する。
主文 本件申立はこれを棄却する。
理 由 (略)
[第6編]了
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