日本硬質陶器のあゆみ

編集者   重利俊一
発行所   日本硬質陶器株式会社
発行年月日 昭和40年10月20日
印刷所   株式会社吉田次作商店

日本硬質陶器58年の歩み

[第4編] 在任21年に及ぶ香椎社長時代

大正14年(1925)

松風社長退任前の様相

第9回定時総会
(引き続き欠損)当期(大正13年7〜12月)の定時総会は、大正14年1月30日金沢商業会議所で開かれたが、期中売上げは680,000円、7,800円の損失となり、前期繰越損金と合せ、117,800余円の繰越損失金を次期へ計上した。前期51,000円という大きな損失に対して、著るしく改善されたようであるが、借入金、支払手形など合して1,300,000円近い負債の処理は今の業況としては難かしく一層経営難を色濃くしている。

松風退任最終決算
なお、その後3月に開かれた臨時株主総会で松風社長らは退陣し代って香椎源太郎氏が釜山から乗り出して経営の衝に当るので、ここに松風時代最後の決算として第9期末現在貸借対照表を掲げる。総会終るや、株主中から今の業況より考えて前途まことに憂慮に堪えぬものがある。会社は基盤を強固にするため一層の努力を払うようにと強く要望した。

〔第9期末貸借対照表〕

(資産の部)             (負債の部)

未払込株金     2,812,900円    株金      3,750,000円
地所及建物     950,866円     借入金     750,814円
機械器具什器    638,588円     支払手形    397,716円
受取手形      43,873円     未払金      102,254円
未収入金      66,561円     仮受金      35,598円
貯蔵品       158,770円     未払配当金   774円
製品半製品     183,029円     社債金     370,000円
製造用具及仕掛材料 78,903円     合計      5,407,156円
仮支出       37,029円
有価証券      5,580円
諸預ヶ金      58,563円
戸畑勘定      254,429円
前期繰越損失金   110,060円
当期損失金     7,802円
現金        598円
合計        5,407,147円

なお売上は681,000円である。

◇香椎源太郎氏ら来社
  3月6日釜山商業会議所会頭香椎源太郎氏及び武久剛仁氏来社。重役の晩饗会に出席

各重役相つぎ辞任
そうした情勢の中にあって、各重役が相つぎ辞表を出している。先ず13年4月21日松風系の監査役大滝新之助氏(京都)が辞表を出し、続く5月15日に取締役の横山俊二郎氏が辞任、さらに同月25日会社創立以来縁故深き北村弥一郎氏が病気理由に同じく辞任し、6月30日には常務飯尾次郎三郎氏も辞任している。こうして各役員相つぎ退任するのは、固より事前の相談だろうが、これは一つには大正14年10月ジュネーブに開かれる、第7回国際労働会議に派遣される資本家代表を、政府が京都財界に依頼したところ万場一致松風氏の識見を買って強力に推薦し、その結果、氏も遂に引き受けたため、折柄経営難による打開策として新経営者にバトンを受け渡すに汐時でもあるので、こうした全役員が辞任というところまで発展して来たのである。

著しい陶業の不況
その頃のわが国の財界は第1次大戦後の不況が尾をひいている上に、関東大震災のあふりを喰って、厳しい段階に入って来ている。当時金融界も大震災の余波を蒙り、このため整理倒産銀行も出てくる始末で、そろそろ、昭和2、3年の金融恐慌へつながる様相を呈している頃である。会社としても、さきに減資を敢行して、頽勢の挽回をはからんと努力し来ったのであるが、何分窯業自体が不況にあえぎ、対策として全業者は、13年2月神戸で対策協議会を開催、小黒専務も出席して協議に加わったが、会議は何らの名案も出ず、結局互いに無駄な安売り競争は避けたい、外国品との価格差のない程度で値上げを行うなど微温的な決議で終った。

松風社長は、このような苦しい経営難時代に処して、以上のような、各重役の辞表を手にしたので、その善後策を講ずる臨時総会を早急に開き、新役員を選任せねばならぬ段階となったが、その有力社長後任者として、前記釜山の富豪で釜山商業会議所会頭の香椎源太郎氏が挙げられたのである。

臨時総会で香椎源太郎氏社長に就任
大正14年3月26日金沢商業会議所で臨時株主総会が開かれ、松風社長欠席したので小黒専務が議長となり
1.取締役6名、監査役2名辞任に伴う補欠選挙の件
を議題にし、先ず飯尾常務から重役一同辞任の理由を述べ、新たに経営の衝に当らんとする香椎源太郎氏を紹介し、取締役及び監査役の選挙は詮衡委員を挙げて決することとし、吉岡福忠、関川輝幸両氏が選ばれた。そして監査役を3名に増員することとし吉岡氏より取締役、監査役に次の諸氏を指名した。

取締役 香椎源太郎 (釜山)
〃   倉知鉄吉   (東京)
〃   飯尾次郎三郎(留任 金沢・本多家代表)
〃   荒川五郎  (神戸)
〃   小黒安雄  (留任)
〃   武久捨吉  (釜山)
監査役 横井伊佐美 (金沢)
〃   小寺敬行  (留任 東京前田家)
〃   石原源三郎 (釜山・石原逸三氏の親戚)

以上役員改選の結果、重役会互選により、香椎氏代表取締役社長、専務に小黒安雄、常務に飯尾次郎三郎氏がそれぞれ就任した。また取締役には香椎氏意中の人釜山の武久、石原の両氏が加わり、これで重役陣は金沢、釜山、東京と結ばれた。金沢本社はその後支社となり、支社長に武久取締役の子息武久剛仁氏が就任し松風前社長は相談役に推された。香椎社長は当夜鍔甚に知事始め県市有力者40名を招待披露宴を開き、翌27日には会社で香椎社長から従業員に対し改めて就任挨拶があった。

香椎社長就任と反響
これでいよいよ香椎時代となるが、香椎氏が釜山の富豪であるということなどで耳新しく当時の新聞もいろいろと書き出され反響を与えている。その一、二を拾うと

 先ず北国新聞経済欄「当座帳」は10余年の永きに亘って硬陶の社長であった松風氏は同社長を辞して新に社長を迎えるなどの評判▲功罪は相半ばしたにしても硬質陶器を金沢名産の一として仕上げた手腕は抹殺されはしまい▲とまれ社長更迭後において懸案の資金問題も解決されるといわれるから悪くなる筈はない。

と評しました、北陸毎日新聞は3月11日付の朝刊に二段ヌキで次のように報じている。

 斎藤総督の斡旋で、朝鮮の富豪を迎え、硬質陶器の社長改選
日本硬質陶器は大正9年経済界の反動以来業績不振を呈し多額の借入金を有するためその利子を支払えば株主に配当を為し得ざるのみならず、若干の欠損を残すの悲境に沈淪し株主の憂慮はいうまでもないので現社長松風嘉定氏を始め現重役一同責任を負うて辞表を提出したので、本月下旬か来月上旬臨時株主総会を招集するそうである。その後任につきそく聞するところによれば斎藤朝鮮 総督の斡旋で釜山の富豪香椎源太郎氏を社長たらしむべく取締役に選挙し、現専務小黒安雄氏また直接経営者として再選される模様である。香椎氏の年間所得は80万円と称せられ、事業経営は打算的からでなく国家的見地よりして極めて重要なる事業であるからこれが振興を図らねばならないというので起ち上ったのだそうである。

松風社長辞任と香椎氏受けつぎのいきさつ
とにかく当時財界話題の中心となったのがこの松風、香椎両氏の経営者入れ替りである。果して如何なる経緯で松風社長から香椎社長に引継がれたかを述べてみる。

 思うに松風一門の辞任はまことに唐突である。なるほど会社も不況のあふりを喰って、資金繰りなどもひどく苦しくなって来ており、それにやること、なすこといすかのはしと喰違う、社長としては時に嫌気も起そうが、かというて明治末期以来、14年も長い間会社と苦楽を共にし、また遠大な構想をもって設立した朝鮮硬質陶器会社も、合理化の見地で金沢と合同し、資本金750万円と いうその頃としては、業界最大の会社に仕上げた松風であるから、不幸関東大震災などの影響から資本金の半減をする破目になったとはいっても、それでまた何とか苦難を乗り切る期待もあるというもの、いわばその心境は会社を退く気にはならないだろう、それが今度のジュネーブの国際労働会議に晴れの資本家代表として選ばれるともなると、矢張り晴の舞台へ出掛けるのは男子の一大 事業である。ただ硬陶が、これ以上悪くなってくると、ジュネーブへ行くこと自体も難かしくなる。松風社長としてはまさにこれが取捨に迷ったことであろう。

 こういう微妙な段階に処して、小黒専務は松風の寿府行という絶好の花道の場を与えて、会社を辞める、それには適当の良き候補者を得ることが条件だが幸い香椎源太郎氏が居る。そこで小黒専務は渡釜のおり、香椎氏に会い意中を話し、国家的、大局的見地から擁立する、曰く

――硬質陶器は本来輸入を防圧し進んでは海外に発展して行かねばならぬ、国家的見地からいっても、重要な会社である。且つ釜山にも長谷川総督時代姉妹会社が設立せられ、今ではこれが一本化し支社工場になっている。これは朝鮮の開発と朝鮮人の福利民福をはかる意味でも緊要な事業である。多年国家発展を以て念とし、且多数鮮人のために努力を惜まざる貴下の御尽力を願いたい。事業の性質は国家のためであり、朝鮮に利益を齎らすものであるが今は不幸にして資金の点で行き詰っている。従って、此処に金さえあれば会社は立直り将来もまた有望である――

という説法である。こうなると香椎氏も意動き、遂に援助するという内諾を与えた。そこで小黒専務は京都で松風社長に委細を打ち明けたところ、社長としては十余年間献身的に努力して来た城を明け渡すのだから好い気持のするわけはないが、内心は小黒はよい打開策を講じてくれたと喜んでくれたらしく(このところ小黒氏の松風氏回想より取入れた)小黒専務の交渉役はまず成功した格好である。ただ社長の性格からして、そんな心持があるとしても、顔色に現わしたりする人ではない。しかしどちらにしても良き後継者を得て、松風社長もホッとしたようだ。その後改めて小黒専務は社長とともに釜山に赴き香椎氏と交渉したところ、話もトントン拍子にいって、たちまち意志疎通し固い握手を交わした。

 爾後社長に就任した香椎氏は、内部を整理し難関を切り抜け一応軌道に乗せたのでこの点松風氏も満足した如くである。(松・香会見は以下武久氏によると神戸で初会見したという。)

(註)=なお別項石原逸三氏の香椎氏回想談及び香椎氏社長就任とともに金沢支社長となった武久剛仁氏(現在郷里淡路島に在住)の社長就任に至る機微な話がある。

――武久剛仁氏談――(香椎氏時代の取締役武久捨吉氏長男)
            
松風・香椎両氏神戸で再会
父捨吉は、香椎社長就任と同時に請われ釜山側代表の取締役となったのですが、壮年時釜山に渡り、ここでずっと海運業や漁業に従事し、対支貿易主体にやっていたのである。大正11年私が東大(経済学部)を出ると、ただちに釜山へ行ったので、父が親しくしていた香椎氏とも知るようになった。

◇当時シベリヤにはハバロフスク政権があったが、日本との国交は充分進んでない、そこへ自称シベリヤ浪人の加藤巡吉という人物が現われ、香椎氏にハバロフクスの要人を知っている、彼を通じ沿海州の漁業権を握ったらどうかとうまく口車に乗せたので、香椎氏もその気になり、使者として大正13年1月頃であるが、若年の私と下関で香椎漁業出張所長で氏の妹婿である、山田という人を、現地に赴かせることになり、それで2人は敦賀を出航し、浦塩につくと加藤が此処で待ち合せておる。早速ハバロフスクへ行って当事者と交渉の結果、漁業権に関する調印となり、これに対する補償金も払ってこの話しはついた。ところが、この調印がなかなか発効しない。ハバロフスクの局面が変って来て政権がぐらつきせっかくの漁業権もフイとなった。

◇恰度その頃、香椎氏には硬質陶器の話が出て、斎藤総督と話し合ったところ当時行き詰った朝鮮の産業政策に対し、斎藤総督はこの話に関心を払い、釜山工場に、補助金を出してもよいという意向を知ったので、香椎氏も引受けることになった。それでは一つ金沢工場をみて来ようと、私に対し金沢は何といっても主要工場だが、君が行ってやったらどうかということになり、私は香椎氏と同行した。大正13年9月のことであるが、当事専務は小黒氏で、すでに社長後任のことで交渉に当っていた香椎氏と周知の間、さらに飯尾次郎三郎、横井伊三美氏らからも事情を聞いた上、東京廻りで神戸に至り、そこで松風社長と落合うということになり、今日でも現存しているが、西村旅館で両者初顔合せをした結果、松風社長の希望もあり、社長就任の内諾を与えた。

◇それから釜山に帰り、父捨吉も加わって、周囲のものと協議の結果、硬質陶器入することに意見一致を見、それでは釜山から誰を重役入せしめるかということになり、父と今一人監査役(石原源三郎氏)を出すこととした。氏の参謀である大野峯次郎氏の専務入りはそれから間もないことである。

◇さて支社長として入社した私は早速整理問題にぶつかったが、会社の経理内容が予想外に悪く、当時資本金(3,500,000円)の大半は未払い込みであり、松風社長時代発行した社債の一部返済期限のものの支払いに直面し、2、3万円の金ぐりも出来ない。そのため東京の債権者辺りから製品の差し押えをされたりする仕末なので社長はこれを自分のポケット・マネーで立て替えたりしたこともある。一方株式の方は浮動株を引き取って、これを殆んど買収した。なお私はその後(昭和)間もなく父が死んだので、家庭の都合上会社を辞したわけである。

香椎整理始まる 人員整理で動揺

松風整理と香椎整理
明治45年松風社長が乗り出すと、早速資産内容を検討して内部を整備した、そのため決算に10万円という、当時としては大きな赤字を出し、人員整理も必至ということで、従業員は不安を感じ、場合によってはストにも出ようとする形勢もあったが、先は事なく終わった。

 ところが奇しき因縁というか、今後は松風決算を香椎が整理する仕儀となり就任早々約8万円の評価損を計上し、内部整理をはかった。そして人員整理を再度行うということで工場は大きく動揺した。以下はその状況の一端を記したものであるが、その前に当時におけるわが国経済界の環境を眺め大方の参考としたい。

不況に悩む経済界
大正大震災は首都東京を中心に、一朝にして50億の富を烏有に帰せしめたのである。この影響は大きく、震災手形補償法の発布を見るという次第で、震災前と震災後とは、わが国の財界の情勢は一大変転を来したのである。

 その間山本内閣は虎の門事件の責を引いて辞職し、大正13年1月清浦内閣が成立したが財経政策は金解禁即行反対、震災復興資金は外債に仰ぐこととし、英国より25百万ポンド、米国より15千万ドルの募集決定となったが、その借入条件が悪いので世間から屈辱公債という芳しからぬ評判をとったものである。しかも外国からも日本経済界を悲観的に見るので、対米為替は暴落し、これに対して正貨を現送するなどしたので為替は絶えず不安定となり、金解禁論も出て緊縮政策も加わり、経済界は大戦後の不況をそのまま続けて、景気恢復の見通しをつきかねるということで産業発展条件は悪化し、昭和2年のいわゆる昭和会社恐慌とつながるのである。硬質陶器の業況も松風末期においてそうした情勢をはらみつつ香椎へ受渡しとなったのであるから、香椎社長就任直後の各種整理も已を得ないのであろう。しかしこれを受け入れる従業員にも自から不安動揺をかくし得ない。

4月に先ず102名整理(金沢)
大正14年3月香椎社長就任と軌を一にするかの如く、釜山、金沢両工場の整理が始められた。金沢は釜山に遅れ、4月30日午前9時から正午に亘り、従業員400名中102名の大量整理を発表した。理由は業界は極度に不況にあえぎつつあり、しかも早急に恢復し得ない見通しであり、到底現在の生産を継続するのは困難で、これが打開策もなかなか生れない。致し方なく従業員の整理もやらねばならなくなったもので、従業員の日頃の苦労を想えば、こうした整理断行は、真に会社として断腸の思いである。けれどこの整理をする、せぬは会社の存否にかかわる重大なことであり、遂にこのような措置になったと諒解を求めた。

 この整理の方法としては、年令40才以上のものと、比較的就職期間の新しいものから選ぶこととしたのだが、当時不況深化し、失業問題も喧かましい折柄だけに、その反響を注目されたものであるが、その間の事情を了解しているか、従業員もこの日のあることを、それとなく知っていた模様であり、別段騒ぎも起らず、この整理発表は一応円満に解決をみたのである。

再度整理で遂に紛糾
第1回の整理は以上のようなことで波瀾なくすんだが、会社側では引続き第2回目の整理ということになった。整理対象60名といわれたが、これは会社側で否定している。だが従業員の不安が拡まり、不平不満も大きい、それを当時の新聞は次の如く報じている。

◇先に全従業員400名中102名を整理した同社は、さらに第2段の整理として、各部の主任より内々さらに60名を解雇する旨申渡し、希望者は本月中に申出れば、1ヶ月分の解雇手当を与える。若し希望者無ければ、賃銀を低下して他方面の分担作業を行わしめるということである。会社側がこの挙に出たことは、さらに第2段の淘汰を行う方図であって、工員より自発的に退職を申出でさせて、表面馘首を避けようとしているといわれる。当日会社側では過般の解雇問題以来極度に神経を尖らせ、夜警の人数も増加して、徹宵警戒している状態である。

会社側は否認
これについて武久金沢支社長は
 『将来のことは断言出来ないが、今の処第2段の淘汰をやるようなことはない。各主任から申渡したことはあるかも知れないが、それは私の全然与り知らないことである。ただ毎年この頃になると、農村の繁忙期のこととて自発的にやめる人も相当にあるようだが、こちらからやめさすようなことはない。この間の淘汰で一人の職工もいなくなった部もあるので他の分担の職工をその方へも廻わすようにしているが、分担が変われば新しい仕事には不熟練ではあるが、それがために賃銀を引下げるようなことはない。先の淘汰で従業員は、大体会社の内容を知っているから、自発的にやめるものもあろう。しかし会社の現状がこんな有様だから引止めることはしないし、またこの際自発的にやめる者には解雇手当を出す要もないと思う』

と頭からその事実を打ち消していたが各部主任からこんなことをいい渡したかも知れないとその辺をやや曖昧にしていた(5月6日新聞記事から)すると翌7日――果然30名を馘首云々――という三段見出しで次の記事が掲げられてある。

◇日本硬質陶器会社金沢支社では、既報の如く、過般の第1回馘首が、その後何等の問題すら起すことなく、穏やかな形勢にあるをみて、さらに第2回の淘汰をなすべく計画中のところ、6日午後に至り、職工中より退職希望者を募り、希望者50名中30余名に退職を命じ、整理するところがあった。今回の淘汰は会社側としては、退職希望者を募って断行したのであると伝えられているが、その裏面には希望者募集に際し、職工退職の場合に当然支給すべき手当を餌にして、今回の退職者には一ヶ月の手当を支給するも今後会社が純然たる馘首を断行する場合は、手当金も支給せざるべしとか、あるいは賃銀値下をほのめかすとかの方法を採ったらしく、一部間に噂されており、前回40才以上の転職困難なる老年者を馘首したるが如き、又今回といい会社側のやり口に対しては相当批難されている模様である(以上)

会社の整理反対スト
こうした一次二次の従業員整理をめぐり会社内一部にストが起った、原因は会社が5月1日付で35名解雇したところ、同情ストというか、20名の工員が2日会社を欠勤するとともに解雇された35名と一緒になり、市内穴水町某所へ集合対策を協議した。これを聞知した会社側では、ただちに所轄玉川署に急報したので高等係が臨検し、謀議にふけっている一団に解散を命じたので、一同はすぐ解散した。工員側の要求は会社の解職手当が、棒給一ヶ月分であるのを不当とし、勤続年限に応じて3ヶ月乃至5ヶ月分を支給せよというにある。これについて、武久支社長は

 『35名を解雇したことは事実である。会社の財政上、涙を揮って辞めて貰ったのだ、普通工員は日給で1円2〜30銭位のもので、これまで200名ほどであるが、財政上から35名を減少したわけである。会社の退職手当は、平均一ヶ月分支給することになっているが、解雇されたもので金を受取りに来たものは5、6名しかいない。
なお会社では三日午後2時協議の結果、代表委員2名を以て、退職手当3ヶ月支給の連名決議書を携え会社側を訪問し武久支社長と夕刻に至るまで、交渉を続け要求実現を頑張ったが、会社側も強硬態度で臨んだので、意見一致を見ず物別れとなった、解雇された一工員は記者に対して

――1ヶ月位の手当ではこの不景気の時に仕事も探せぬ、われわれの要求は無理ではない。しかもわれわれを馘にする裏で安い給料で人を入れている。われわれは会社に反抗する考えはないが、生きんがための正当な要求なので何とかして呑んで貰わねばならぬ――
と語っていた(新聞記事より)

 当時畠山恵技師はこの争議で会社側の従業員担当者として全責任を持っていたので、従業員側から吊し上げられ、外出も出来ない、そこで会社では臨時収容所を設け会社の若い屈強のものを畠山技師のボデイガードに当らせた(この項津田義雄氏談)

 しかしこの従業員側の要求も何ら具体化することなく解決したが、新聞には26日この五ヶ月前同社工員となった失職の工員某(42才)が糊口に窮し能登線で鉄道自殺を図ったと轢死者の身許を報じている、そして7月30日付の新聞によれば「このほど残部職工一同に対し事業不振の故を以て就業時間を一時間ずつ短縮し、これと同時に従来の賃金を各一割ずつ減給することにした。これがため残部職工は生活の不安から会社側へ事情を訴えて、何分の安全処置を交渉したところ、会社側でもこれを諒とし、製品を露店に出してその販売利益を全部職工側に提供することを承諾したが、同会社の小売専売店が、会社直接のこの露店を黙認しているか疑問である」と報じているが、製品の露店売りまでして整理に資する営業不振は蔽うべくもない。

会社側整理事情を確認

生産調節協議での神戸業者大会
大正13年2月神戸で価格協定の同業者大会を開き、安売競争の不利から免れんとしたが、14年6月24日神戸で全国同業者の会合をなし、生産制限に関する問題を協議した。会社側から大野専務も出席、現在の同業者の窮境を打開するには、どうしても生産制限を行なわねばならず、それには幾多批判を甘受しても従業員の淘汰をしなければ他に途がないということになった。そういうことで大野専務は去月五日に行った整理事情を確認せざるを得なくなったが、しかしこれは当社の根本的な縮少ではなく何れは好況に向えば機を見てさらに積極的に踏み出すべきものであるから、その時には復職して貰うよう期待していた。何にせよどの業界にも失業者を多く出している折柄でもあり、残った工員が挙って生産に励めば恢復も時期の問題と確信したという。

大正14年ごろの宣伝
大正14年ごろの会社の宣伝用小冊子が各特約店に多数ならべてある。表紙は"洋食の心得と硬質陶器"内容は洋食の心得、食器の選択、硬質陶器の特長、用途、硬質陶器と弊社の沿革、弊社の光栄・現況、整品の大要、海外販路、内地需要品の一例(名称入食器)などきめ細かく述べてある。その中で"食器の選択"硬質陶器の特長、用途など素人の編者だがなる程と分る節もある。その宣伝文を掲げよう。

◇食器の選択
日常使用の食品には、どんな条件が必要でしょうか、きっと次のような御要求をなさいますでしょう。
 1.堅牢で容易に破損せぬこと
 2.熱気、薬品の消毒に堪え得るもの
 3.優美鮮麗使って気持のよいこと
 4.そして価格の低廉なるもの
 その御要求にもっとも適したものは、わが硬質陶器ではありますまいか?
わが硬質陶器の構成の分子は至極微細となる故に表面滑らかで端麗なる色麗を有しますので、使用するに当って実に心地よくまたざん新なる意匠と相まって装飾品として適当であります。
 4.価格低廉(略)

 まァざっとこういう文句である。今日の組織的な宣伝力と販売網しかもその生産規模、生産性、そして品質デザイン等々と併せ考うればあまりにも往時と大きな差異のあることを認めないわけにゆかないが販売意欲はなかなかに旺盛だ、PRはなお続く。

 わが硬質陶器は次のような特長を具備しています。
  硬質陶器の特長
 1.品質堅牢 最新科学の極致を利用して原料を精選し、素焼、本窯共に摂氏千度以上の高熱を以て焼上げますから構成分子を完全に結合せしめ弾力強大となり転落激突を受くるも容易に破損しませぬ。急に熱湯を投じまた熱気あるいは薬品等で消毒の場合にも亀裂や毀損を生ずることなく普通陶磁器に比したしかに三倍の耐久力があります。
 2.形状均整 大規模なる設備ある工場で動力を用い、最新の機械作業によって製作致しますから、形状整然と統一して歪形等を生ずることがありません故に体裁もよく取扱上にも便利ですから、従って破損の機会等も少ないわけです。
 3.色沢優美 原料の精選が充分なるため素地は白色鮮麗となり粉砕、漉過その他精選の操作が完全です。

釜山へ本社移転決議
大正14年5月14日金沢に臨時株主総会を開催、香椎社長病気欠席したので、釜山から武久取締役、石原(監査役)両重役出席、小黒専務議長となり、本社を金沢から釜山に移し金沢を支社とし、各枢要地に出張所を設けることを得る定款改正案を承認した。理由は朝鮮総督府に、予て補助下附方を申請中のところ、先決問題として、釜山に本社を置くことを必要としたのである。これに対し一株主から『この際釜山へ本社を移す理由は分るが、今後金沢の支社を廃するが如き運命に至らしめないよう努力せられたい』旨要望あり、全員原案を承認した。明治45年金沢で会社発足以来、早くも3代社長を迎うることになったが、本社の釜山移転は金沢としてはショックである。これにつき金沢商業会議所々報の記すところでは、これは名目で実質は金沢であると、伝統金沢の硬質陶器を誇っている。また北国紙の東西欄というところに「硬陶の本社は、いよいよ釜山に移された。歴史ある地方の物産だ、看板はかけ替ても、事業を持って行かぬことだ」ととにかく香椎社長就任と本社を釜山に置くことの関心を払っている。

◇決算期変更
  なおこの臨時総会第2号機案で、定時総会開催日、6、12月中に開くのを今後5月と11月の2回に改め、総会開催日は本社所在地で行う、従って事業年度は、4〜9月を上期、10月〜3月を下期とする。その結果本年度に限り、事業年度を9月まで延長し、総会日を11月に招集することを承認し、臨時総会を終了した。総会終了後、小黒専務より会社再建のために、両工場の整理が必要となり、人員整理に着手したいが、朝鮮工場ではすでに行っている、次いで金沢工場の整理も不日実行したいので、目下書類と実地について、調査を行っている旨を報告し株主の了承を求めた。(因みに本社移転の件は5月20日登記された)

釜山初の第10回定期総会
大正14年11月24日釜山商業会議所で第10回(大正14年1〜9月の9ヶ月間)定時株主総会を開催、釜山における初の総会である。議案は決算案と整理損失金処分の件及び取締役1名(釜山府在住大野峯次郎氏)補欠選挙の件で何れも原案を承認、大野氏は専務取締役に互選の結果就任した。なおこの整理損失金は両工場の整理上実地につき調査の結果評価方法で18万76百余円の喰い違いを生じたのでこれを損失金とした。その結果損益計算書では、13万348円の損失となり、前期繰越損失11万78百円と合し、24万82百円の損失を後期へ繰越した。

 なお整理の結果、東洋拓殖銀行よりの借入金及び畑、地所の処分等は、それぞれ有利に解決することを得たが、同時に既往の高い利子は悉く低金利に借替えすることが出来、日歩2銭5厘で弁ずることになった。

 販売面では各方面よりの注文も急速に出て来たので、むしろこれに応ぜられぬ程であり、漸次値段を引上げていけば少しは利益も加わろうと、どうやら明るい見通しになって来た。因みにこの新金沢工場勘定だけをみると、製品売上高74万3千円、純益45,869円を計上している。

小黒専務辞任
大野峯次郎氏専務就任に伴ない、小黒専務は辞任した。大正14年12月である。明治45年松風社長の請を容れ、東京から来社し支配人、専務として14年間社業の発展に努めたが、ここに香椎氏の腹心大野専務の就任と相俟って、バトンを渡し今度は七尾セメントの創立者として常務取締役となり、前イワキセメント、現スミトモセメントの基礎を作った。その後病を得て東京に戻り、戦時中は老境にあるとも覚えぬ活躍ぶりであったが、昭和17年病に倒れた(なお小黒氏のことは別記にある)

大正15年(1926)

第11回総会
当期(大正14年10月〜15年3月)は前期末若干明るくなったことを反映して、10万7千円の利益を計上しているが、前期繰越損失金が、24万8千円あるので、14万1千円の欠損を後期へ繰越している。借入金は603千円、支払手形253千円、未払金82千円、社債308千円、当座借越金26千円と資産構成は悪い(5月25日開催)

第12回総会(30万円の社債を発行)
(大正15年4月〜6月)期の利益金は42千円、14万円余の繰越損金から差引いて98千円を次期繰越損金とした。(総会9月5日釜山)

 ◇主要勘定次の通りである。

貸借対照表
〔資産の部〕    (円)     〔負債の部〕 (円)
未払込株金     2,812,500    株金     3,750,000
地所及建物     940,140     借入金    681,483
機械器具什器    577,588     支払手形   175,954
受取手形      121,567     社債     308,800
製品貯蔵品半製品計 171,656     利益金    42,254
前期繰越損失    140,728     その他    
合計        5,101,756    計      5,101,756

役員改選
   なお取締役6名、監査役2名、任満に付改選の件は香椎源太郎、大野峯次郎、倉知鉄吉、荒川五郎、飯尾次郎三郎、武久捨吉の6氏、監査役には横井伊佐美、小寺敬孝の二氏夫々当選した。また香椎氏は代表取締役に、大野氏は専務取締役に決定す。しかして決算は人員整理後の効果は前期以来現われて、当期も利益金を出したが、如何せん金融難である。これが打開のため、第2回社債総額30万円を発行することに決定、条件下記の通り
〔社債発行条件〕総額30万円、利率年9分以下、社債償還の方法及び期限大正18年9月30日一時償還す。但し買入れ償却は期限内と雖も任意とす。利子支払方法3、9月末元利支払場所本社、募集方法は非公募。

昭和2年(1927)

大降雪で窯場倒壊工場重なる休業
御諒闇の昭和2年1月中旬からの降雪は近年にない大ごとで新聞は白魔という表現で報道した。1月18日夜来降り初めた雪は、19日に8寸、20日3寸、21日は吹雪となり、22日は積雪4寸、23日1尺に達す。このため23日午前7時工場9区、11区釜場建物約150坪倒壊したが死傷はない。24日降雪9寸となり社員徹宵警戒したが、工場危険のため、24、5両日休業し、27日から一旦操業したが、2月7、8日大正天皇御大葬儀で臨時休業、しかし引続く降雪のため8日午前8時、9区の窯上屋50坪墜落した。工場は9、10日危険のため休業し、更に紀元節の11日と12日排雪のため臨時休業、13日定休、14日排雪で臨休と打ち続く休業で被害も大きい。そして15日漸く本格操業に入る。蓋し昭和豪雪史の中に挙げられる記録的大雪である。

彦三大火
昭和2年4月21日午前4時横安江町の造花店から出火、折からの烈風に火は八方に延焼、大火となり焼失戸数7百余戸、このため本社関係社員、従業員宅の罹災もあった。すなわち庶務主任宮本信二氏宅ほか4名の家屋類焼その他被害を蒙れる関係者数名あった。金沢大火の報で県外関係者より多数見舞に接した。

第13回定時総会
当期(大正15年7月〜昭和2年1月)決算は14,896円の利益を出し、次期繰越損金は8万3千円に減った(釜山2年3月10日総会開く)なお対前期比主な負債勘定は次の通り(カッコ内は比較)
    借入金    741,945円(58千円増)
    未払手形   225,600円(40千円増)
    未払金    104,470円(22千円増)
    当座借越   14,867円(34千円減)
    利益金    15,425円(66千円減)
    次期繰越   83,049円(15千円減)

第14回総会(再び損失に転ず)
昭和2年7月期の定時総会は9月2日釜山で開催、監査役1名改選の件は、石原源三郎氏重任した。豪雪で1、2月休業日も多く、またその他の悪材料もありて、当期損失8万1千円を出し、次期繰越損金は16万3千円に達する。

昭和3年(1928)

第15回総会
当1月期総会は3月1日釜山で開催、業績好調で375百余円の利益を上げ、11万6百円の次期繰越となった。

第16回総会
当期(大正3年2月〜7月)は9月5日開催。収入65万2千円、雑収入4,672円、計657千円、同支出655千円、差引3,269円、総督府補助金125百円、計15,769円の利益となり、後期繰越損金110,653円である。
 なお監査役2名、横井、小寺両氏任満改選重任した(総督府の補助金がなかったら3千円しか儲からない。金沢工場敷地を売った方がよい)という新聞論調も出ている。

始めて電炉使用
京都や名古屋の陶器業者中には電炉を使用しているものが多く、金沢でも一、二の工場では電炉を使用している。石炭窯に比べて、燃料費は高くつくが、熱量が均一して不合格品が少なくなり、生産費を安くするので、会社でもこれが研究を進め、田中健三郎技師は、12月6日名古屋方面の関係方面を視察したりしていたが、試験的に上絵焼窯に3台の電気炉を設備することとなり、5月上旬から操業することにした。1台の消費電力量は50キロである。なお成績良ければ3台を増設し、これで全部焼けることになる。なおこの電気炉工事は遅れて同年11月末名古屋のメーカーにより取付された。

昭和4年(1929)

第17回定時総会
(3年8月〜4年1月)は3月2日開かれ、32千円の当期利益金となったが、前期繰越損金11万余円あるので、78千円の赤字を次期へ繰越した。

不況で34名を解雇(退職手当要求で争議)

ところで昭和3年金融恐慌後の経済界は一方に金解禁対策あり、緊縮政策なので同社の営業も昭和4年となると不振を極め、これが打開策として4年5月1日製作部職工を主として原料部、図案部工員34名を整理通告した。大正14年第1次緊縮方針として4月末と5月末とに140名を整理して以来のことで、全従業員は200余名である。会社では日給25日分を解雇手当金として支給したが、これに対し20名の工員が2日同情ストを行ない、退職手当の増額を要求した。(5月3日北陸毎日新聞)しかし会社側は「昨年末から不景気のため人件費緊縮のため機械力の充実をはかり目下着々施工中であるので当分手不足を感ずるが已を得ない。それに昨年暮規定賞与の4倍も支給し、なお1ヶ月分の棒給を与えてあるから、この際余分の要求は絶対受けられない」と強硬態度を持して工員側の手当3ヵ月分の要求を断わったが、この争議は北国新聞始め各紙にデカデカと報道され大きな話題となった。尤も新聞報道ほどの事態ともならず交渉も穏やかに続けられたが、結局工員の要求貫徹は出来なかったようである(当時の支社長は武久剛仁氏)。

天皇御即位式
11月10日天皇陛下御即位式に当り、前日9日会社では昭和3年度職工奨励慰安会休止につき、酒肴料ならびに御大礼奉祝鏡餅を従業員205名に配った。

第18回総会
9月25日釜山で開催、7月期決算は29千余円の利益をあげ、487百余円を次期繰越損金とした。なお取締役6名、監査役1名任期満了につき改選の件は何れも全員重任した。

昭和5年(1930)

会社年賀とりやめ金輸出解禁自粛で
昭和5年1月11日懸案の金解禁は断行された。時の首相浜口雄幸、蔵相井上準之助氏である。金解禁の重要性にかんがみ、会社恒例の新年祝賀式も政府の緊縮節約主義に則りこれを取りやめた。金解禁が発表されると香椎社長も金沢支社へ訓電し激励した。

武久支社長辞任
昭和6年1月28日武久支社長厳父取締役武久捨吉氏死去されたので、家事の都合上3月11日辞任す。後任に神戸出張員中島康三郎氏就任した。

第19回総会(第1回社債解消す)
昭和5年1月決算は3月10日開催、業績は解禁下不況の中を26千円の利益を上げ、前期繰越損金4万87百余円から差引22,441円を次期繰越損金とした。なお第1回社債残額の内3月18日に一部を償還したので残額は19百円と殆んど返済せられた。繰越損失はまだ消えてないがやっぱり総督府補助金が強味で近来は毎期利益を見ている。

―――社長就任5周年記念―――

3月26日社長就任5周年記念につき工員及び社員一同へ印入タオル一筋、酒肴料50銭を授与した。

第20回総会
この期(昭和5年2月〜7月)は釜山で9月27日総会を開き当期損失、6,542円後期繰越損金18,000円を計上、取締役1名補欠選任の結果、福島源次郎氏当選監査役2名改選の件は小寺敬孝、横井伊佐美両氏再選した。

製作制限から賃金カット
 斯業の打ち続く不況と製品の滞貨で困り抜いた会社では、5年8月30日操業短縮のため毎土曜日休業することとし即日実行したが、11月19日となり工員一同に対し男子日給60銭以上、女子日給40銭以上、109名に対し、当月20日より9分減額を発表し直ちに発令、その代り翌20日より実施中の製作制限及び土曜臨時休業を廃止した。そして12月20日、昭和5年度従業員奨励慰安会を休止し代るに酒肴料金1円宛従業員160名に配与した。

 12月27日監査役石原源三郎氏死去。

昭和6年(1931)

2月10日第2号上絵焼付電気炉竣工

第21回総会
(3月21日釜山)昭和6年1月期は346百円の赤字となり、次期へ636百円を繰越した。金解禁後の不況が此処へ来てはっきりしている。

第22回総会
(9月26日釜山)昭和6年7月期も不況のシワ寄せ甚だしく、332百円の赤字、99千円の損失金を次期へ繰越した。今両工場の損益をみると金沢は63円の利益だが本社工場は33千円の欠損である。監査役1名改選で井谷儀三郎氏当選。

金輸出再禁止
浜口内閣は倒れ、積極策の犬養政友会内閣となるや6年12月14日金輸出は再禁止となり、爾来対外為替相場は30ドル台に暴落した。

賞与支給を半額
12月28日社員賞与を昭和6年度上期分規定の半額を支給(総額607円)し従業員へ臨時賞与として5百円を支給した。

昭和7年(1932)

第9師団に動員令
上海事件は拡大し、2月3日第9師に動員令あり、社員1名召集せられる。2月7日、司令部、歩兵7連隊、山砲兵9連隊出征した。会社では3月従業員出征者には賃金の2分1を2ヶ月間給与に決定した。
第23回総会
(3月14日)昭和7年1月期16千円の赤字となった。

第24回総会
(昭和7年7月期)決算は売上高で18万円余、63百円の当期損失金となったが、8,075円の総督府補助金を差引17百余円の当期利益となっている。なお製品売上高内訳は釜山10万24百円、金沢は778百円、利益内訳は金沢1,774円、釜山40円、次期繰越損失金は11万1千余円である。
 また役員改選案では取締役6名、監査役2名任満につき改選の結果(取締役)香椎源太郎、大野峯次郎、倉知鉄吉、荒川五郎、飯尾次郎三郎、福島源次郎(監査役)横井伊佐美、小寺敬孝再選重任した(3月11日釜山)

香椎時代の業績検討

為替安景気で助けられ、戦時体制下に入る

 そこで、改めて香椎社長就任以来の業績を検討して見よう。香椎社長の在任期間は大正末期から戦時中の昭和20年頃まで20年の長きにわたるので大体これを次の3期に分ち説明したい。

 1.大正14年〜昭和7年
 2.昭和8 年〜昭和16年
 3.昭和17年〜昭和20年

 まず第1期を松風末期の整理から、大正大震災後の不況、そして金融恐慌、金解禁を財界受難期とみて考えると、会社も金融難、製品値下りと随分その間苦労をしている。もっとも各期別にすれば、利益も出ているが、それも総督府の補助金で僅かに助けられている有様で、金融難は毎期絶えることはない。後述(150頁に記載)の石原逸三氏の回想談にもあるように、その中で大野専務が金融で窮余の一策として、社長のプライベート10万円の借用を全社員借用の連記で頼んでいるところがある。こうした挿話を読んでみても就任当初から昭和7、9年位までは会社も財界不況を背景に苦んで来たか分る。従って第2回社債を募集しても成功せず昭和5年には11月従業員に対し賃銀の減額を実施し、その上同じ時期に土曜休日として操業を短縮している。特に他社製品に対抗するため当社の市場における一級品の悪いのを思い切ってカットして金沢製品の内地向け製品を高級化したり、釜山本社の製品は大量化で輸出に持っていくなりして生産分野をはっきりして合理化に努力したものであるが、そのため3年間苦しみ抜いているなど、とにかく昭和7年7月期までに11万円以上の繰越損金を抱えている有様だ。

為替安と国内景気恢復で安定
そうした状態にあって、昭和6年末の金再輸出禁止は、対米為替低落となり、100円に対し49ドルが30ドル台にも落ち込んで来たのだから輸出もし易くなり、国内も物価もドン底から上げ出して来る。また会社の生産分野を行なう苦難期も過ぎて、その効果も現われて来たので、昭和7年7月期から黒字に転じて来た決算は、実にそれから10年、20期の決算を当期利益金計上で運び、配当も低率ながら昭和10年1月決算から復配となり、売上高は昭和8年年間7,80万円から9年には120万円、10年には140万円となる盛況を見せた。そして後期へ繰越す利益は昭和16年7月には8万円に達した。

準戦体制から戦時下へ
香椎社長の第3期は昭和17年から始まるが、この時はすでに太平洋戦争に発展し、統制も全く戦時体制下に置かれ、しかも戦局は不利に陥っている。しかし売上高は18年1月期だけで100万円を突破するほどにあげて来たが、損益は釜山工場中心に赤字に転じている。終戦となるや釜山工場は放棄を余儀なくされ、金沢だけになり新展開をすることになって香椎時代は終るのである。

釜山と金沢業績比較
釜山と金沢は大野専務の方針で釜山は大量生産で輸出向け、金沢は高級品で内地向けということでその分野をはっきりさせようとし随分と苦心の末、そういう格好がついたのであるが、さて両工場が業績の上にどれだけ寄与しているか、結論はつけにくいが、参考に手元にある資料に基き、売上利益を工場別に出して比較してみる。売上に対する利益率では金沢の方がこの表でみると良さそうだが、売上高となれば流石釜山は金沢を圧倒している。

香椎社長就任来の業績
                    
No.決算期利益
▲は損
前期繰越金
▲は損
売上高
(年月)(単位百円)(単位百円)(単位千円)
1014.9▲1,303▲1,178不明
(9ヶ月)
1115.31,075▲2,482
1215.7423▲1,407
     
132.1154▲984
142.7▲809▲830
153.1375▲1,630
163.71581,264
     
174.13231,106
184.7296783
195.1262487
205.7▲65▲220
     
216.1▲346▲290
226.7▲332▲636147
237.1▲160▲968180
247.717▲1,128
     
258.1416▲1,110335
268.7339▲684394
279.1245▲345577
289.7346▲100600
     
2910.1486245752
3010.7313280632(配当48厘)
3111.1354280634( 〃  )
3211.7453307601( 〃 608厘)
     
3312.1435340684( 〃  )
3412.7434580779( 〃  )
3513.11,070416888( 〃  )
3613.7580440725( 〃  )
     
3714.1307447592( 〃  )
3814.7311399( 〃  )
3915.1459356( 〃  )
4015.7541445( 〃  )
     
4116.1621616( 〃  )
4216.7283779( 〃  )
4317.119471067.7(  〃  )
4417.7▲69956169.5(無配)
     
4518.1▲336▲1381,062( 〃  )
4618.7▲1,180▲475699( 〃  )
4719.1▲172▲166791( 〃  )
4819.71,160 930

釜山・金沢業績表  (%)は売上利益率、▲は損失
     
期別 釜山
百円
金沢
百円
昭和6.7売上760710
 利益▲33363(8.8%)
昭和7.7売上1,020780
 利益▲0.417.7(2.3%)
昭和8.1売上2,1561,197
 利益371(17%)55(4.6%)
昭和8.7売上2,4301,509
 利益371(15%)275(18%)
昭和9.1売上3,6912,078
 利益1,048(28%)140(6.6%)
昭和9.7売上3,5172,486
 利益204(5.8%)141(5.6%)
昭和10.1売上4,8702,647
 利益335(7%)150(5.8%)
昭和10.7売上3,8732,440
 利益175(4.5%)138(5.6%)
昭和11.1売上3,9502,390
 利益200(5%)154(6.4%)
昭和11.7売上3,5202,485
 利益216(6.1%)216(8%)
昭和12.1売上4,3102,530
 利益130(3%)305(1.2%)
昭和12.7売上4,8302,957
 利益138(2.8%)297(10%)
昭和13.1売上5,8803,000
 利益892(15%)175(5.8%)
昭和13.7売上4,4302,820
 利益376(8.4%)206(7.17%)
昭和14.1売上3,4502,460
 利益95210(7.1%)
昭和17.1売上4,2402,380
 利益223(5.2%)168(7.0%)
昭和17.7売上4,5702,380
 利益▲867168(7%)
昭和18.1売上8,3002,310
 利益▲626289(12%)
昭和18.7売上4,667不明
 利益155(3%)  
昭和19.1売上5,7602,145
 利益▲412270(12.4%)
昭和19.7不明 1,395
   88(6.4%) 
昭和20.1売上7,1402,575
 利益265(4%)271(10.5%)
昭和20.7不明 1,438
   366(2.5%) 

※14年7月期―16年7月期資料欠く

昭和8年(1933)

為替安から来る会社の好況来

過去2年赤字に悩む会社は、第24回(7年1月期)から僅かながら赤字から黒字決算に転じたが、黒字は第43回(17年1月期)までつづき損失を出すことなく安定経営となっている。これはいうまでもなく、再禁止から来る為替安で輸出がし易くなり、また物価もどん底から恢復して来たためだ。

第25回総会
8年1月期の利益は426百円を挙げたが、前期繰越損金はまだ11万円余残がある。なお金沢工場の売上は12万円利益55百円であった。(3月11日釜山)

第26回総会
8年7月期の利益は339百円、前期繰越損金684百円に補填す。(9月12日釜山)

硬質陶器工業組合
硬質陶器製造販売は、全国的に組織せられることになったので石川県下における硬陶業者も工業組合を組織して、生産の統制をはかるべく10月9日中島硬質陶器金沢支店長ほか金沢製陶、第一製陶、井出製陶、小松製陶等の代表者が出県、手続き上につき打合せした。予定通り出来れば全国硬陶工業組合連合会に加入する筈。

昭和9年(1934)

―輸出明るく久々の工場拡築―

昭和6年末の金輸出再禁止で救われたわが国の産業界は昭和8年に入り、その影響が次第に現われて来た。対米為替は昭和6年末、44ドル強であったのが再禁止の結果翌7年1月は36ドルに落ち、同年11月には20ドル台に崩落した。そして翌8年もこの推移を辿って来たが、その年12月に30.755ドルにはね上った。これは米国の平価切下げで相対的に上ったためであるが、とに角4割以上の円安は輸出増進の刺戟剤である。当時の対外貿易をみると、輸出年額昭和6年の11億79百万円は7年に14億57百万円、更に8年には19億31百万円に飛んでいる。しかも当時は外国の関税引上だの、輸入割あてだの、ブロックだのと列国が防禦工事をしている間のこの輸出増進である。それに国内は軍需予算増加で財政支出も多くなった。経済活動も活発化せざるを得ないのは当然である。例えば産業活動の基本である電力消費の指数は昭和3年を100として昭和5年111、8年平均145.8に上昇している。

 かような情勢において、会社も近来めっきり明るくなって来た。長い期間の"毎期赤字"は"毎期黒字"に転換し、売上も伸びて来た。こうなると会社も従来借入過多、繰越損金で手も出なかった新規拡張を久々で行なう気運にもなってくる。

 9年1月12日大野専務は飯尾常務に拡張計画を示して同意を得、引続き工場拡張に関する審議会を開き、以前縮小せる各機関を復活し、両工場共に月間10万円以上の製品を出すことに一決し、その準備に取りかかった。従って両工場とも工員数を増やし、その上金沢工場は高級製品に一段と技巧を加うるよう努力した。

第27回総会
その9年1月期利益は24,483円の利益を計上したので、次期繰越損失金は遂に1万円に減じ、後一押で赤字は解消となるのだ。(3月16日総会)

業績好転の慰安会
4月26日、全従業員慰安会を市郊外粟ヶ崎遊園地で開く。不況のため永らくご無沙汰の慰安会だけに、折柄の快晴にも恵まれて大変な人気。来賓も30余名出席したが、新聞にもこの慰安会記事が出て、「大正4年頃の盛時に返ったような」会社の活況と述べている。

昭和9年7月の手取大洪水
そういう硬陶には春立ち返る昭和9年であるが、この3月には函館大火あり、25日には手取水域の大洪水が発生し、従業員は率先募金して寄附をしている。

第28回総会
9月7月期は引続き346百円の利益を出し、9期ぶりに繰越赤字は、転じて245百円の後期繰越剰余金となる。(9月23日)

昭和10年(1935)

忘られた配当復活 第29回総会
会社配当といえば。松風時代の大正11年7月期いわゆる政策配当(6分)をして以来ずっと無配を続けているのであるから配当も忘れられたようだ。その配当が、この29回(10年1月期)総会で46千円近い利益をあげ、それに前期に赤字を解消してあるので、年4分8厘配当と低率ながら復配した。なお監査役2名任満改選の件は1名減員し横井伊佐美氏再選重任す。(3月23日)

香椎社長就任10周年記念
そんな好い環境の矢先3月は恰かも社長就任満10周年に相当するので、会社では10年3月24日釜山、同26日金沢と両工場でその記念祝賀をかね、従業員表彰式を盛大裡に挙行した。式典の模様は当時の新聞紙上にも三段ヌキ写真入りで報ぜられたが、社長の献身的努力により、赤字苦難時を乗り切り、今日の好業績を迎えることになったためその感懐も深い。10年以上勤続被表彰者社員13名、雇員3名、工員57名である。

香椎社長就任10周年の資産内容
社長就任10周年に当り第29期貸借対照表(昭和9年8月〜10年1月)を示すと下記の通り

(負債の部)  単位 円    (貸方)
株金     3,750,000   未払込株金   2,812,500
借入金    437,500    土地建物機   
支払手形   249,400    械器具什器   1,509,800
未払金    167,600    戸畑勘定    116,000
借受金    24,747
前期繰越金  24,522
当期利益金  48,594
合計     4,705,379   合計      4,705,379
利益金処分
当期利益金 46,564円、前期繰越 24,522円 合計 73,087円
  法定積立3,700円 別途積立金 15,000円、従業員保証基金 1,000円
役員賞与 2,913円 配当(年4分8厘)22,500円、後期繰越 27,974円

  変電室竣工(4月21日)日本硬質陶器の盛況

 北国新聞から――7月3日付「業界見聞記」から次の会社近況を語る賑やかな記事が出ている。
 ――九谷の本場金沢市において、その品質、需要先を異にする硬質陶器の大量生産がある。その概況を知るため市内長町河岸の日本硬質陶器金沢工場を訪ずれた。過去3ヵ年のインフレ景気、海外為替関係のため同社製品は近年著るしく輸出が激増し、今日では年額160万円に達する盛況を呈して来た。ために久しく無配を続けて、陰忍自重を続けた同社も昨年下半期より年4分8厘の配当を復活し事業の前途に燦たる光明を放っている。右につき金沢工場長は語る。

 「釜山の本社は主として大衆向き低廉品を製造し、南洋・印度・濠洲・比島に輸出しているが、金沢工場は高級品を製造して南北アメリカ・南亜・濠洲・欧州へ輸出している。元来陶磁器は、国内にも輸入され珍重されたが、今では逆にオランダへ輸出している。毎年クリスマスを控えた下半期の売行よく製品はデイナーセット・化粧セット・煙草セット等多種多様に亘り、デイナーセットの如き数百人のお客を招待するほどのものに造られている。今生産の7割5分が輸出向けで2割5分が内地向けである。云々。

影なきストライキ

  「待遇改善で迫る」 「容れずば総罷業」

(昭和10年)3月9日付記事から
  会社日誌3月9日付を開くと次のようなことを記してある。
 ――当工場内に何ら動揺なきにも不拘左の如きこと外部に聞え甚だ迷惑をなせり――〔夕刊北国新聞号外〕

 金沢硬陶職工結束し
     待遇改善を迫る
       容れられずば総罷業か

 硬質陶器金沢支社では現在男工約5百名および女工百数十名あり。その平均日給70銭なので、到底最低生活をも保証されぬというので、一部従業員間では昨年10月頃から極秘裡に準備を進め、会社側に数回にわたり、待遇改善を要求していたが、少しも容れられぬので、一昨7日市内某所に約40名が集合して、その要求具体案を考究し、昨8日正午から、大神宮で従業員側幹部数十名が協議した結果、左の9項目にわたる要求を決議し、これを会社側に突きつけることに決定した(中略)一方、社大党石川県支部創立準備委員会および全評石川合同評議会では、従業員側へ応援に乗り出し、要求が容れられぬ場合は、即時罷業に入るべく種々準備が整えられているという。しかしてその要求というのは、全文9要項にわたるが内容下記の通り。

要求 1.日給3割即時値上 1.従来の6、7割の歩合(請負制度)を廃止すること 1.全日曜日休業を第1、3日曜休業とすること 1.第8区係の主任某を更迭すること 1.購買組合制即時制定 1.従業員相互会の会計を即時公開すること 1.その他2項目

◇喧嘩腰でない、反省して貰いたいまで
  従業員側の代表某は語る、「現在の待遇は余りにも苛酷であるのでその反省を促すこととなっただけであり、別に喧嘩腰で対抗しているわけでない。

曾て交渉を受けた覚えなし・意外な要求に驚いて善後策講ずる会社側
  会社の中島支店長は"私の工場では大正15年大縮少、人員淘汰の際に少し工員の動揺があったが、それ以来工員の不平なんていうことは少しも聞いたことはない。現在小学校を卒えたばかりのものは、37.8銭とはなっているが一般工員の平均賃銀は、1月現在で約1円47銭、また女子の方はいろいろの関係から58銭とはなっているが、職工側に不平があるとは、それはホンの2、3職工の策動でないかとも考えられます。かって一度だって待遇改善の要求を受けておりません。全く初耳です。それは今9日大野専務が、来沢しているのを機会に何らか、ためにせんとするものの仕事でないかと思います。過日来サボ気味のところなど少しもなく、現に昨8日の日曜日など全員がほとんど出勤し、また夜勤までしているものも相当あるほどです。今のところ工員側の不平の出所は一寸見当がつきません"

ブローカーの手でこねた硬陶争議・裏で操った元大衆党員ら2名・今朝玉川署に検挙
 これは翌日の新聞見出しである。記事の内容は結局"元社会大衆党員と、製材職工某の2名が、製材職工某の隣家にある某を呼び寄せ、会社の内情を聴取して、同夜急速に9ヵ条の嘆願書を作りあげたが、これは何ら工員に支持のないもので誇大なストを各方面に流布、虚を狙って一儲けする魂膽であり標本にしてもいいようなダラ幹ぶりを曝露したものである。玉川署でも事情を聴取して、彼の誇大妄想的な行状にあきれている"というにあるが、何にしても当時人騒がせな事件として、話題に上ったものである。因みに主謀者は拘留10日に処せられた。

第30回総会
昭和10年7月期も引続き3万1千余円の利益を出し、28千円を後期繰越剰余金とし4分8厘の配当を据置いた。なお期末現在借入金は425千円である。
 役員改選で香椎・大野・倉知・飯尾・福島の5氏再選重任(9月28日釜山にて)

◇年末工員 金沢は338名
  年末金沢工場従業員338名に対し奨励金計2,240円支給す。

昭和11年(1936)

飯尾取締役死去 当社取締役で北国新聞社・倉庫精練・明治印刷・その他多数関係会社の重役である飯尾次郎三郎氏は1月28日死去した。

第31回総会
11年1月期決算も354百円の利益となり、30,750円を後期へ繰越した。(なお、金沢工場では239千円の売上、225百円の利益)監査役改選の件は井谷儀三郎氏再選重任(3月20日釜山にて)

◇日硬防護団結団式
そろそろ時局も準戦体制への色濃くせるか、会社でも6月11日日硬防護団が結成せられ、13日防護演習を行なう(134名出勤)

香椎社長夫人死去
  6月27日福岡市で死去せらる。

消防演習の折詰で34名が中毒
9月13日第2回消防演習を行なった翌朝朝食の折詰弁当で34名中毒を起した。このことが北国・北陸毎日に大きく取扱われた。蒲鉾の腐敗からか。

第32回総会
11年7月期の利益433百円と好調。配当も4分8厘から6分05毛と増配した。払込資本金938千円に対し利益率は8分1厘に当る。借入金も40万円に減少、支店長中島康三郎氏停年退任し営業相談役に委嘱、田中嘉三郎氏を銅版技術相談役に委嘱。

◇年末従業員326名
  年末現在従業員326名に対し、2,757円の奨励金支給。

昭和12年(1937)

石原逸三氏支店長心得
1月7日当社営業課長の石原逸三氏は支店長心得となり、田中健三郎氏は金沢支社工場長、宮本信二氏経理課長にそれぞれ就任。

釜山工場出火
1月31日午前4時50分釜山本社工場匣鉢部より出火、工場3棟焼失し、同6時鎮火損害17千円

凄い硬陶景気
(2月14日の北国新聞から)輸出硬質陶器は素晴しい売行きを示し、金沢工場では昨今南亜・ブラジル・アルゼンチン・北南・中米・カナダ等から殺倒する注文で、現在すでに8月一杯の先約の為悲鳴をあげている豪勢ぶり。このため同工場は全く転手古舞猫の手をも借りたい位の多忙を極め昨年来募集している職工はまだ100人位足りないという。しかし諸物価暴騰と先約注文で以前のように儲からぬとこぼしている。

戦時体制へ強化(日支事変勃発)

 昭和12年7月芦構橋事件の一発は、いよいよこれまでの準戦体制から、戦時体制への途を進める一の段階となった。事変突発による直接の人事に関する影響は、まず職員、工員の応召から始まった。当工場も始め2名応召を受けたので、今後の情勢に対処し、会社では従業員応召対策打ち合せ会を9月5日開催し大野専務ら3、4名出席協議を重ねた。その後9月20日引続き社員中村嘉一氏ほか従業員20名に動員令あり。工場内もそろそろ戦時気運がみなぎり慌ただしさを加えて来た。

第33回総会
12年1月期は435百円の利益、38千円を次期剰余金として繰越し配当据置く。

盛んな片山津慰安会
(当時の日誌から)5月26日(昭和12年)雨後曇 定休 第25回従業員慰安会を県下片山津温泉所にて開催す。午前6時半一同会社に集合折柄豪雨雷鳴を交えたるも、全従業員の意気盛んに行進を始め、音楽部員の吹奏する工場歌高らかに金沢駅に到着、全員456名午前7時28分発臨時列車に乗り楽隊の音も高らかに出発。午前8時20分動橋駅に到着、降雨のため来賓及び女子従業員は電車にて温泉場到着、男子は勇壮徒歩にて あらや・鹿野・湯ノ出・関4旅館に着。一浴後午前11時半頃午餐の配膳あり、種々の隠し芸等続出、午後2時天気恢復せるにより、片山津神社境内にて宝探しの余興あり、午後3時頃まで各賞品と引換を行ない4時帰途につき金沢駅着。楽しき一日を過した。

第34回総会
12年7月期は業界引続き順調売上78万円と過去の記録を更新する成績、利益も434百円をあげ配当を据置く、借入金も遂に40万円を割る(9月30日釜山)

◇A11号素焼窯(12月26日竣工)
◇12月末工員304名に、12年度下半期奨励金支給 2,921円

昭和13年(1938)

第35回総会
13年1月期は売り上げ89万円で新記録、利益も106,748円と10万円台となる。配当据置、借入金現在額362,500円と減少す。この貸借対照表次の通り

昭和13年1月末現在貸借対照表  (単位円)

負債の部           資産の部
資本金     3,750,000  未払込株金   2,812,500
借入金     362,500   土地建物    769,195
支払手形    108,738   機械器具    482,750
未払金     169,153   受取手形    134,681
仮受金     15,489    未収入金    102,746
未払配当金   3,092    戸畑勘定    46,619
法定積立金   17,700    製品、半製品  73,732
別途積立金   30,000    貯蔵品     53,164
従業員保護基金 6,000    当座預金    35,195
前期繰越金   41,656    その他     100,606
当期利益金   106,748     計     4,611,088
  計     4,611,088

利益金処分
法定積立金 5,500、別途積立金 30,000、 配当準備積立金 50,000、
従業員保護基金 1,000、役員賞与金 8,000、配当金(年6分08)28,500、
後期繰越金 44,803

なお監査役1名選挙の件は大鳥井信光氏当選(3月24日釜山)

◇小松製陶所両工場出火
 4月22日小松製陶所小松工場から出火工場の大部分を焼失、次いで5月1日粟津工場全工場全焼した。

◇第36回体育奨励慰安会
 5月3日和倉温泉和歌崎本館・別館・銀水閣・柴端館・都石館・加賀屋旅館の6旅館分宿1日の歓を尽した。

◇服部山陶土持込相場
 5月8日本年度10貫目に付44銭5厘と決まる。

第36回総会
13年7月期は利益58千円、配当据置、取締役、監査役の改選は次の諸氏当選した。
(取締役)香椎源太郎・大野峯次郎・倉知鉄吉・福島源次郎・横井伊佐美・上山節(監査役)井谷儀三郎

◇12月末従業員奨励金 3,148円85銭を286名に支給す。

昭和14年(1939)

第37回総会
14年1月期の利益3万余円配当据置定款変更の件で定款第3条に「輸出工芸品製造販売」を加う。取締役1名増員の件は香椎宗太郎氏当選副社長に推された。

◇鶴山原石値段協定成立
 特選1等原石工場着10貫60銭、並1等原石同54銭

第27回従業員芦原で慰安会
第27回従業員慰安会は今度は芦原温泉で14年6月3日開催されたが、その名称もここ1、2年前から時局に鑑み体育奨励慰安会と冠せられているが、日頃時局緊張しているだけに、1年2度のこの従業員慰安会は彼らにとっては、まさに命の洗濯であろう。そんな気持が軍国調の日誌の中にもよく現われているが、以下は日誌原文のままだが、当時の工場慰安会の情景が手にとるように分り興味をそそる。

◇昭和14年6月3日(臨時休業)
第27回従業員体育奨励慰安会は福井県三国東尋坊及び芦原温泉にて開会。当日午前6時20分一同会社に集合、事務所前に赤・白・紫の3班に整列東方遥拝、皇軍出征将士に黙祷を捧げ、石原会長一場の挨拶をなし、午前7時歩武堂々社旗を先頭に出発、金沢駅に着。同7時28分発客車五輌編成の臨時列車は金沢市を後にばく進し始めたり。初夏の陽は早や天高く輝き、草の芽を緑に染め、水田の早苗に宿る露の光、畦道の芝にざれる小犬の喜びなどを車窓より眺める気分は年中における最大の明るさ、朗らかな今日と思う。この日われらの日硬列車は南へ南へと進行し、途中寺井・小松・動橋に暫しの停車をなし、早くも加賀越前の国境なる牛ノ谷のトンネルも瞬くまに潜り抜け、金津に停車、いよいよ待望の三国線に進行芦原に寸時停り帰りを楽しみに三国駅にて電車三両に乗替え、午前9時25分東尋坊東口に下車、海岸林間の小道を一列に「ハイキング」をなし、午前10時眺望絶佳の東尋坊へ到着、休憩に貝拾いに撮影に各自の歓を尽し、同11時20分発車、新道を電車駅に着し、芦原駅着。
  来賓及び招待者は いろは旅館  女子班赤色章 いろは本館
  男子班紫色章   室吉旅館   男子班白色章 灰屋旅館
に夫々到着、一浴後午饗の配膳御酒及び菓子・お土産の配給あり。宴たけなわなること、他の如何なる工場もその比を見ず。踊るもの、歌うもの、入浴するもの思い思いの歓を尽し、午後5時駅前に集合帰途につき暮色蒼然たる午後8時18分金沢駅に着、楽しき1日は折柄の快晴に恵まれわが社の隆盛を祝福しつつ慰安会の幕を閉づ。

◇石原支店長心得 支店長 7月1日付発令

第38回総会
14年7月期の利益金31千円配当据置、定款に副社長1名を加うる定款変更の件可決した(9月30日)

◇大野専務辞任
 当日の総会で多年香椎社長の懐刀として活躍せる大野専務辞任のため慰労金給与を重役会に一任(なお大野専務辞任については別項武久剛仁氏の回想を参考にされたい。)

◇社内鎮座稲荷祭
 12月9日執行(神主謝礼10円、従業員一同へ紅白鏡餅330重を給与1重3合1升70銭1重21銭)

◇14年年末賞与金
220名に対し3,358円を給与する。

昭和15年(1940、紀元2600年)

◇元旦祝賀式
午前10時より事務所階上で挙行。横井取締役その他社員・従業員・技工及工場各部代表60名参集す。

15年初頭の大雪
大正2年1、2月大降雪があったが、昭和15年もまた1月9日の猛吹雪に見舞われて後、暫く小康を得たが、その後19、24、25、26、27、28、29と降り続け25日は、積雪4尺以上に達し、操業休止の止むなきに到り、9区窯場の一部B6号建物一部墜落す。26日は北陸線不通、操業休止、27日も同じく操休し50年来の大降雪となり、倒壊家屋、圧死者多数あったことを新聞は報じている。28、29両日操業休止、除雪中の工員天窓より墜落重傷を負う。

第39回総会
15年1月期は45千円の利益、配当6分8毛据置き、監査役改選では大鳥居氏再選重任す。

第28回従業員体育奨励慰安会
5月18日白山比盗_社参拝皇軍の武運長久を祈願、それより辰口温泉の3旅館に分宿1日の歓を尽す。

◇15年上半期従業員に賞与
  6月29日従業員188名に対し賞与2,327円を支給

◇宗叔町2番町寄宿舎新設
 9月3日先に購入せる宗叔町地内に寄宿舎を新設を許可。

第40回総会
15年7月期54,148円の利益配当据置く、監査役井谷儀三郎再選す。

大政翼賛三国同盟結盟石川県民大会
 10月13日第四高等学校で挙行。会社からは、20名出席した。また10月20日紀元2600年記念石川産報連合会体操大会に20名出席した。

臨時株主総会
11月22日釜山本社において、取締役香椎宗太郎、上山節の両氏日本硬質陶器商事K.K.取締役就任を承諾。

香椎社長回顧
  勝海舟に学び朝鮮で成功す
       前社長 石原逸三氏の談

 朝鮮を舞台に活躍した釜山財界の雄香椎源太郎氏は以上の如きいきさつで第3代社長となった。この香椎社長の生い立ち、人と為りについて、前社長石原逸三氏は以下のような回想談をなしているが、一読非常に興味を感ずる。

勝海舟に私淑養家を飛び出す
香椎氏は福岡県三笠村鬼木に次男坊として生れた。22才の時香椎家に養子となる。香椎家といえば、かの2.26事件で例の今からでも遅くないの名調子で知られる勧告で、一般の記憶に残る香椎司令官も、その一家で、福岡の名家である。養子になった源太郎は、少年時から勝海舟先生にあこがれ、その門下生たらんと機を窺い、家を飛び出し上京したが、何しろ懐中は無一文で汽車賃もない。着のみ着のまま、徒歩でお上りということになり、やっとのことで、勝の玄関先に現われた。書生が乞食のような香椎を見ると"何んだこの野郎"と忽ち追い返えされたが、何とか勝先生に会いたく、門前でぽつんと立っているのを、折柄、出先から戻って来た勝家の老女中に認められ、その取りなしでどうやら書生として傭われることになった。

大阪で一成功
それから3年というもの、先生の薫陶を受けていたが、ある日のこと、先生はなにがしかの金を与え"これで大阪へ出て商売に励め"といわれ、来阪して商売をやっていると、それがうまく当り、人力車で乗り廻わすような、一応の成功者となった。しかしそれも暫らくの間で、まんまと失敗し、大阪に居たたまらなくなって、故郷の九州へ逃げ出し、鹿児島で漁業や鉱山関係に手を出したが、うまくいかず、さては郷党関係にも、迷惑をかける仕末で"あの香椎の野郎"と散々悪態をいわれ、相手にされない。

伊藤総統から漁業権を認可さる
どとのつまり、朝鮮に渡り、釜山でごろごろしているうちに、流石、大器の素質あるか、何時の間にか釜山の漁業界でも知られる成功者となった。その頃朝鮮総統は伊藤博文公であったが、たまたま朝鮮沿岸97ヶ所の漁業権許可について、誰に許可権利を与えるか、考慮を払っていたが、総統の意中では三菱など財閥にやりたくない。朝鮮で骨を埋めるような、気骨ある士に許可してやりたいと、敢えてそういう朝鮮のためになる男を求めていた。そこへ引合わされたのがこの香椎である。総務長官の目賀田男爵から"一介の漁業者だが釜山にこういう男がいる。一つ会ってやったら如何か。ということで、京城へ呼び出されたのであるが、紹介の労をとった目賀田男は、勝先生に教えられているところから、香椎のことも知っていると見え伊藤総統、香椎対面の一幕となったものである。

 渡りに舟とはこのことで、香椎はその頃も実は京城への旅費にも事欠くほどだが、さて総統に面謁すると、総統はただじろじろ見るばかりで一言もいわない。それに業を煮やした香椎は「私はぶらぶらと釜山から、ここへ来たのではありません。わざわざ仕事をやめて参ったのですから、御用が無ければ帰らせて貰います。」と席を立とうとすると、総統は始めて"まァ待て、話のことは分った。それでよろしい。"と制した。いわば総統の人物試めしの場であろう。それから話が始まって結局長期40年間という朝鮮沿岸における漁業権を彼に許可したのである。

硬質陶器入りまで
それからの香椎氏は、まことにトントン拍子でうまく事業が運び財も出来て、釜山では商業会議所会頭に推され別に瓦斯電気会社を創立したりして、とに角釜山では5百万円の資産もあろうといわれる位に実業家として成功した。しかも朝鮮で金が出来れば、国へ財を持ち帰えるというのが在留内地人の普通のやり方であるが、彼の場合は後でも判ったことだが、そのようなことには目もくれず、朝鮮で大いに財を投じ、朝鮮のためにやるという気骨のあるやり方であるから、まさに伊藤公の目には狂いがなかったといえる。受ける香椎の方も座敷には、勝海舟先生と、伊藤公の写真が掲げられてあり、何か事あれば、まずこの二人の写真を運び出すようにと家人に注意するほど、終生両先生を徳としているという、そんな話の持主でもある。さて氏が会社を引受けたのは、その間にいろいろの経緯もあろうが、とに角話が氏へ持ち掛けられると、何といっても釜山に工場のあるのが魅力である。それに硬陶の方では斎藤総督に話して、朝鮮にこの国家的な事業である、かつ将来性のある事業を香椎に是非引受けて貰うよう、事前に懇請したが、それでは香椎氏は適任ということで推されたのである。ところが初め香椎氏は漁業の他は何も知らないからと断わったようであるが、是非にとの要請でもあり、遂に大正14年3月、日本硬質陶器の社長に就任、総統府の産業振興策の線に添い、補助金も得て本社も釜山に移すことになったのである。香椎氏が会社を引受けると間もなく、小黒専務は退き、代って腹心の大野峯次郎氏が専務になったが、この人もなかなかの切れ者であり、会社の業務を一切合財采配を揮って勢力的であった。方法として金沢・釜山両工場の特色を生かさねばならぬと、両工場における生産分野を定めることとし、それの一環として九州戸畑にも煉瓦工場を作ろうと、そこに土地などを購入した。尤も戸畑はものにならなかったが、釜山工場にしても、従業員の未熟から良い製品にならない。そこで大量生産方式で原価を安くし、この方の成績を順次上げることとして、東南亜輸出中心に進め、金沢は内地向高級品という方針でやり、日本陶器や名古屋製陶と充分対抗出来るものにまで育て上げようと金沢工場の改革を図った。実は私も当時これに関連して東京出張所員として、製品改良の責任の衝に当っていたが、当時東京で販売する一級品というのが、大部分その名に適していないものである。それを大野専務の指示により、大きな犠牲もあったが思い切り値打のないものを普通品にして、品質向上に資したが、それが軌道に乗るには大正5、6年から始まって3年かかっている。その期間は実に会社も苦難の道程で、長いこと決算も赤字であったが、遂に酬いられ今日のような立派な製品が出来る基礎作りとなったと考える。

未開封の借入証文
しかしこうした苦しい過程において香椎社長も大野専務も余程金繰りのことでは苦しんだのであるが、それについてこんなウラ話もある。1日専務は社長の宅へ行き"何かと社長にお金のことで御迷惑をかけ相済まないが、もう後は頼まない。どうか10万円を出して頂けないか"と切り出した。すると社長は
"いや、あの会社にはなんぼ金を入れてもまるで川へ捨てるようなもので、金を出す気にはとてもなれない"
と断わったところ、専務は
 "これ以上は決して頼みませんから今度だけはお願いしたいと借用証も持って来た"
と再度の懇請なので社長も仕方なく
 "借用証などどうでもいいのだ。そんなに頼まれるのだから仕方がない。会社に貸すのでなく君に貸そう。保証は君の女房や娘さんである。といって君から返して貰う考えはないが、10万円を出したということを女房や娘さんに知って貰えばいい"
と10万円を手渡したという。実は、この10万円の借用証には金沢の一従業員に至るまで、会社のために頑張るからという連名の判が押してあるのであるが、これは中味を改めず、手箱におさめたままであった。後でこの金の返済に当って専務の話しであるが、この借用証は封をしたままで、切ってもないし、見てもいなかったということである。

 工員に至るまで何とか再建をしようという意気に燃えた一面を現わすこうした挿話もあるとともに、社長も大きな肚の人であることも分る。そして前にも話が出たが、良品を作る努力となったのである。この3年間というが採算を度外視した全く血の惨むようなことだったが、結果からすれば先見の明があったここまで持っていった大野専務は偉いと思う。氏も時折金沢へ来て指導してい ったが間もなく濠洲・アルゼンチンなど白人関係の食器もどんどん出来るようになり、名古屋関係のメーカーに対し硬質陶器では断然頭角を示しているのもこの辺に胚胎している。

 昭和5〜8年にかけ兵役から私が帰った時である、当時金沢支社の方は武内氏が辞め中島康三郎氏がその後任となっていた。この人の父は山梨県知事など勤め男爵で一代華族を唱えた人で知られている名門の人である。(この項終り)

宮本信二さんと会社日誌

本社史を読まれて、すでにお気付かとも思われるが、会社の人事、出張、来社、総会、その他の動きなど日時も詳細に打ち出されてあるところ、一体この資料を何処から得たのかと云う方もあろうが、これらは主として昭和20年末を以て打ち切りとなった会社創業以来の日誌に負うところが多いのである。故宮本信二氏は、その主たる日誌の執筆者である。会社の創業から大正4、5年までは当時の庶務の方が記録したと思うが、大正5、6年以降から昭和20年末まではこの宮本信二氏が自から激務の中を余程のことでない限り毛筆で罫紙に書きのこしたのである。大体一冊罫紙120枚から180枚分位を一纏めにし製本してあるが、総冊数は20冊残念ながらその中の3冊を倉庫中から発見し得なかったが、とに角社史の編纂の上で貴重な資料となった。殊にとかく資料を欠く戦時下から終戦に至るまでの、例えば会社の工場転用交渉など本日誌が無ければ資料編纂にも事欠くであろう位大事な資料であった。又決算など貸借対照表を新聞に広告されたものを切り取りしてあるので、その辺資料で助かったこともある。

 宮本氏の最後の一筆は本文162頁にある昭和20年12月25日の「金沢一般労組結成に呼びかけ」というのであるが、毛筆で一々こくめいに十年十五年と書き綴るところたしかに常人の出来るものではない。

 その宮本信二氏は日本硬質陶器の最古参者の一人。昭和21年金沢で香椎日硬産業社長指示による日本硬質陶器創立の際、設立発起人となり取締役となった。昭和23年取締役を辞任したが、昭和25年1月社の用務で上京中急逝された。因みに氏の令弟際喜氏は現石川製作所並に北日本紡績の両社監査役として活動されている。

[第4編]了


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