日本硬質陶器のあゆみ

編集者   重利俊一
発行所   日本硬質陶器株式会社
発行年月日 昭和40年10月20日
印刷所   株式会社吉田次作商店

日本硬質陶器58年の歩み

[第3編] 松風社長就任から退任まで

明治45年(大正元年=1912)

臨時総会で松風氏社長就任
 明治45年7月30日、明治天皇崩御せられ、大正と改元す。その大正元年9月30日金沢商業会議所で、臨時株主総会が開かれ、宮野社長退任後なので、原専務議長となり

 1.業務整理に関する報告の件
 2.業務整理に関し取締役3名及び監査役2名減員の件
 3.現取締役及び監査役全員辞任につき改選の件

を諮り、何れも原案を承認、第3議案では松風嘉定氏ら次の諸氏が取締役に選任総会終了後、重役会の互選により松風氏代表取締役社長に推された。

 [取締役]松風嘉定(京都)久徳銑太郎(前田家代表)中島徳太郎(金沢)
 [監査役]本多政正(金沢)鶴谷忠五郎(神戸松風陶器KKとの取引関係)

第3回払込通知
 かくて日本硬質陶器は第2代の社長松風嘉定氏をリーダーとし、新役員陣の活動が始められた。

 何分金繰りに急を要し、一日も疎かに出来ないので、早速取締役会で第3回株式払込徴収を決議し、10月8日付をもって株主あて払込通知を発送した。払込は一株につき5円、大正元年12月10日を払込期日とするのである。また同日の役員会で、東京出張所を閉鎖整理し、業務は松風陶器東京出張所へ委託することにした。
 こうして日本硬質陶器は大正14年まで14年間、松風時代を画しその花々しい舞台が繰りひろげられるのである。

宮野派役員退陣の背景
 それにつけても、宮野社長ら、創立当初の全役員が、期間4年にして揃って退陣するとはよくよくのことである。
 表面はどしどし新設備も出来てくるし、売り上げも記録的に伸びている。それがこのように、一挙崩れ去るというのは、宮野社長個人の事件は別としても会社内部に余ほど苦しい事情が出て来たに違いない。
 それを明治45年6月期(第9期)の会社決算面でみると、悪条件も重なり、折角の増産も在庫状態となり、11万円近い資金が眠っている。そのため借入金が125千円に達し終始金繰りに追われる有様で、それを銀行から当座貸越をするやら、東京の金融機関からも無理な借入をするやらで当座を糊塗したものの返済期日の迫るにつれ、相手側の督促は急である。創立当初は、創業人気というか、事なく過ぎたのであるが、配当など今暫らく時期をおいて行なう方針とし、もっと内部に留保していたらということにもなる。
 そのため折角の利益も、社外に流出してしまうのであるが、会社では何とか当面の困難を乗り切らねばと、先ずは名門で鉱山業では全国でもビッグクラスの財閥横山男爵家に経営引継ぎ方を、県知事まで動かして運動した。これに対し横山家は県出身の窯業方面では令名ある北村弥一郎、藤江永孝氏らにも相談し事情を聞いたが、本職の鉱山以外は、どうも未経験で責任を持たれない。“ただ折角の前田家や知事さんの口添えでもあることですから別の面で協力します”と、断わって来た。
 会社はその善後策として大正元年8月27日に重役会を開いて
 1.横山家は現状のままでは引受けられないので、早川千吉郎氏に懇請し、速やかに今後の処置をとられたい。
 2.来る9月15日を期し、早川氏に資金の融通をはかって貰い、それが出来なければ、翌16日の日附で、第3回株式払込の徴収を株主に発送する。但し一株に付金5円とするの2項目を決議した。だが折角の決議も実行に移されず、資金繰りはいよいよ窮迫して来たので、ここに原専務ら役員全員辞任することになり、差し当り急務である社長後継者を定めることとし、わが国陶業界の権威である京都の松風嘉定(かじょう)氏に白羽の矢を立て、そのため有力株主ら京都に赴くなど氏の出馬を懇請する一方藤江氏らの引っ張り役も効を奏し、上述するような臨時総会で正式に松風氏の社長就任となったのである。
 松風氏は、そのため社長に正式就任する前の9月1日藤江京都陶磁器試験場長と共に来沢し、工場を視察するなどして、2日夜帰洛している。

松風嘉定のこと
 松風嘉定(かじょう)は窯の中から生れたような斯界の重鎮であり、晩年は、国際労働会議資本家代表として、ジュネーブに赴くなど大物的人物である。一応氏の経歴を平凡社発行の大日本大人名簿(昭和28年12月発行)から窺おう。
 松風嘉定(1870〜1928)京都の陶業家、祖先は托鉢の人で、時代は天保・嘉永の頃、清水2丁目で製陶を始め、3代嘉定は文久元年より磁業に転じ、明治8年より輸出物に率先した。そのころ肥後の天草石を移入したのも同人らのことであったが、隠居後は嘉響と号した。その養子嘉定は井上延年の子として、明治3年10月尾張瀬戸に生れ、同22年京都陶器会社に入り、翌23年に松風家を継いだ。その嘉定は同39年京都市本町通り二ノ橋に、松風陶器会社を起し、率先して高圧碍子等を製出した外、大正11年には陶歯会社を起し(この陶歯会社は小資本で工場組織に成功した先駆をなす)なお金沢及び釜山の硬質陶器会社を管理するなど、一般陶業界に貢献し、大正3年には緑綬褒章を下賜されたが、昭和3年1月9日歿するに臨み従六位に叙せられた。享年59歳。

その生い立ち
 以上大人名辞典による経歴であるが、「松風嘉定伝」を参考にその生い立ち、人となりなどを偲びたい。
[注]松風嘉定伝は昭和5年1月松風氏の死去を悼みその伝記を編纂した600頁に及ぶ厖大な一書である。
 氏の前名は常太郎、明治3年陶磁器の本拠尾張国瀬戸に生る。父の井上延年(のぶとし)は瀬戸の陶師として、名人といわれるだけに、その血を継いだ彼も、幼少の時から土いじりが好き、いつの間にか父の仕事を見よう見真似で、覚え込んでしまったという。明治11年のことである。当時8歳の少年常太郎は、あたかも名古屋で開かれた共進会に行幸された明治天皇の御前で、小獅子の面を作り、お賞めの言葉を賜わり、子供ながら大いに面目を施したという。それに年少に似合わず人に近ずくことが天才的で、大人もその応待ぶりに舌を巻くほどだ。だがら逆に悪ずれしなければよいがという近隣の噂に立つほどの利口者である、一方父は名人肌といわれるが、名人に有り勝ちな、産をなすことにかけては疎く商売は失敗一方、そのため一時は東京に出て、招かれて東京蔵前高工窯業科に入り、その実習指導をしていたこともある。その後友人である第2代松風嘉定を頼り京都へ移り、京都陶器会社に勤務することになった。常太郎もやがて父の後を追い、同じ職場で働らくことになったが、当時日給は25銭、近くにある伏見稲荷神社前の、めし屋から2銭の弁当をとって、こつこつと働いたが、当時は物価も安く、この2銭の弁当は贅沢だったという。

第2代松風家に養子となる
 ほどなく、彼の仕事ぶりが、人と何処か変っており次第に頭角を現わして来た頃、同氏の顧問役で京都陶業界にその名を知られる第二代松風嘉定氏、つまり常太郎の父君と親交ある人であるが、この松風氏にすっかり見込まれ、氏は5人の子女はあるが、是非松風家の養子として家業を継いでくれないかという異常な頼みに、井上父子も、遂にその請を入れ常太郎は長女の伸子さんと結婚し、松風家の人となった。この二代松風嘉定は常太郎に三代嘉定を襲名させ、自分は嘉響と改名した。
 この嘉響さん、好きな酒で陶然としてくると、きまったように、養子の自慢話しが出る。“ほんとに自分の性に適った男とかねて心がけていたところものになった、おかげで自分の目の曇っていないことがわかって、こんな嬉しいことはない”と喜んだそうである。
 その嘉定が夫人と相談して、真っ先に手がけたのは、松風工業で作っている松風焼という輸出向け焼物で製法は手工業方式であり、とても外国品との競争には太刀打出来ない、それで明治32年の頃、氏は薪の代りに、石炭窯を築造し、コストダウンを図り、外国品に対抗することが出来た。下って明治35年には高圧碍子化学磁器の製造を始め、上絵の横線をつけるのに、石版印刷したものを転写する方法を工夫し、事業を発展させた。なおこれは後日談であるが、陶歯の試作をやって、これにも成功した。当時陶歯は海外から輸入され、それに入れ歯に使用するセメントと一緒に年々輸入はふえるばかりである、氏は輸入陶歯が外人の歯を標準として作られているのを日本人の歯に合うようにしたらと、苦心研究の結果、大正4年から研究し始めて、大正11年日本人に適するものにし、資本金100万円で松風陶歯製造KKを設立し、進んでは輸出品として好評を博し多年の苦心は実ったのである。(注=現在同社は非常に好調で配当も2割以上をしている京都の有力会社となっている)
 その間氏は13年間日硬社長となり、昭和3年辞任後任社長の香椎源太郎氏にバトンを譲り第7回寿府の国際労働会議の資本家代表として、当時有名な友愛会の鈴木文治労働代表と共に会議に出席し名声を一段と上げた。

引き出し役は藤江永孝氏
 松風氏は以上のような陶業界における輝ける功績者として名声を挙げた人物である。この人を金沢へ連れ出しに片棒を担いだ人が当時陶業界に名高き京都市立陶磁器試験場長藤江永孝氏である。氏は石川県出身、前田藩主以来の家臣の流れを汲む人で、松風氏とは切っても切れぬ間柄で、益友と松風氏はいっている。硬質陶器には松風氏関係後顧問に推されたが、支那で陶磁器研究で帰国後チフスにかかり、大正4年1月現職のまま逝かれた。京都陶磁器界に大いに貢献した人であるが、場長の発病以来松風氏は“藤江君には随分恩があるから”といって、許す限り病床にあり慰めていたが訃報に接するや“まことに国家の大損害だ”と痛惜し、遺族のために出来る限りのことをして亡友に対する情誼を厚うした。
 硬質陶器側が、横山家引き出しが難しくなると、松風氏を担ぎ出すことになったが恐らく藤江氏がいなかったら実現は難しいであろう。それに金沢入に対する周囲の反対も甚だしい“誰も引き受け手のない難しい会社へ、それも遠隔地の金沢くんだりまで、毎月幾日も滞在せねばならぬので、松風会社にとっても不利である。火中に栗を拾う愚を避けよろしくお断りして然るべきだ”とその翻意を迫るのであるが“どうせ乗りかかった船だ”と反対を受けつけず、今こそあの会社は苦しい状況になっているが、北陸の一角に硬質陶器という異色会社のあること自体が私には魅力である。それに輸出ならやっていきる期待もある。第一“加賀百万石のお殿様や大株主らが是非なってくれという懇請である、況わんや、親友藤江君の口添いもある以上、断るわけにも行かない”と持ち前の負けぬ気性も出て遂に硬質陶器入りの腰をあげたのである。
 それに肚の中では意中の人、小黒安雄氏の入社を期待し、充分に自分を輔佐してくれると算段している、一方これも販売上その他の参謀役であるじつ懇の鶴谷忠五郎氏を相談役とし、重役に迎える算用を持ち氏の金沢入りは決定的となったのだ。

林武八氏の「松風入社事情」
 この松風社長の硬質入りについて、京都松風陶器会社重役林武八氏の談が「松風嘉定伝」に掲載されてある。結局あれほど松風氏を止めたことも無駄になった所以を記してあるのだが、読んで興味があり、その辺を紹介しよう。

                  松風工業KK 取締役  林武八氏談

肚がきまったら馬車馬のように直進した・・・日硬引受について

松風社長は事業はもちろん何事にもまず確かりと腹を定め戦闘方針をきめる、そして邁進するというやり口であった。人に何か相談するにしても腹がきまってからやる、そして甲に相談して賛成せねば去って乙に相談して賛成者を求めるという風に一旦腹がきまったら周囲の親しい者共が反対しても滅多に耳を傾けようとはしなかった。金沢の日本硬質がうまく経営されぬというので当時京都市立陶磁器試験場長だった藤江永孝氏を通して松風に経営を託せられた時、本人は意大いに動き同会社の立て直しをして断行して見ようという決心をした。しかし松風の本城に事業を共にする私達へ相談して同意を得なければならぬのでその相談を私に持ち込まれた。私は率直に反対を唱えた。本社を留守にしてわざわざ金沢三界までも出張して仕事をする必要はあるまいと苦言したが、結局松風の熱心なる態度に根負けした。日硬はなかなかに経営が難しいので株主らは経営者の人選に悩みに悩んでいた際だったので誰にしても二の足をふまざるを得ない。そういう難物会社を松風が、どうしてすき好んで引き受けたかといういろいろの事情もあろう、だがあの人には人の出来ないものなら俺が引き受けてやり通すという強い自信を持っている。人の出来ないこと、人のやりそうもないことをやって見るという気性の勝った性格の持ち主だったからあんな荷厄介なものを引き受けたのであった。=以上

松風氏逸話(ジュネーブで踊って見せん赤毛布)
 松風氏は講演に遊技に書画に茶道、俳句など何でも御座れの通の通たる人で酔えば唄い、徹宵痛飲を辞せざる人であった。氏が先に渡欧に際し“ジュネーブで踊って見せん赤毛布”と詠ぜられたのは檜舞台で活躍すべく氏の固い決意を示すものであるがそれにも増して喜ばしきは褪せたる赤毛布をまとい、カバン、洋傘を持ちて顔を紛し本山乗りのお上りさんを演ぜられたことは技神に入り驚嘆措く与わず、今に彷彿として目前に現れ終生忘れざることならん、事業を共にした人よりも一緒に遊んだ人の方が慕わしくてならん。(松風伝から、下郷伝平氏記)

松風社長会社再建に乗り出す

第3回払込を発送
 さて松風氏が第2代社長に就任するとなると、その意気や旺盛、しかも責任感が深い。先ず自分の施政方針を、どうするかにつき努めて株主に訴えPRしている。その手始めが4月30日行った会社の金融難切り抜けのための第3回株式払込である。松風社長はその通知書にあわせ、発送せる別項のような会社事情を説明し、その対策を述べているが、当時の会社PRとは稀らしい。
 この第3回払込みは、前会社当事者時代から、何とか実現したいと思い、すでに大正元年9月16日を期し、払込みを意図していた徴収が、株主の信頼感を失っている役員の努力では徴収が難しい。結局新社長に引き継がれ10月8日附で、通知書を発送、その払込日を12月10日に延引され、ただ事は金融上急場を要すので、前田、横山、本多、早川家その他の大株主に対し50日前に特に払い込みを受けるよう交渉し承諾を得てその場を切り抜けたのである。

松風施策語る払込み理由
 第3回株金払込通知書 拝啓倍々ご清ぼく奉敬賀候陳者本月3日取締役会において定款第10条に基づき第3回株金払込左記の通り決議致候間此段ご通知申込候也
 追て万一期日に御払込無之候節は定款第11条により金100円に付1日金4銭の遅延利息申受候間此段為念申添候
 大正元年10月8日
                        日本硬質陶器株式会社
                            取締役社長 松風嘉定殿

1.払込金額   1株に付金5円
1.払込期日   大正元年12月10日
1.払込取扱銀行 金沢市下堤町1番地 加州銀行
         金沢市上堤町39番地 株式会社高岡共立銀行金沢支店
         東京市日本橋区南茅場町6番地 合資会社今村銀行

 この払込通知に併せ社長は会社の経理状況や自分の入社事由、さては会社将来の計画等をくわしく説明している。以下はその全文である。

 −(全文)払込の要望−
 本社業務整理に関し、過日来専らその調査に従事せしに、現今の財政状態は借入金実に13万の多額に上り、就中期限の切迫して延期困難なるものあり、勿論此際第一番に整理改革の必要ありと雖も、一方かかる不健全なる財政状態に在りては、殆んど経営の余地なきを以て、今回重役会の決議により、先ず第3回株金の払込を為し、以て健全なる基礎の上に、事業経営の歩を進めんとす。今や業務不成績の際に当り、株金の払込を断行するは、株主諸君に対し、最も忍びざる所なりと雖も、前陳の事情止むを得ざる次第なれば、幸いに実情を諒察せられ、将来本社事業の安定をはかるため、速やかに払込あらんことを切望す。尤も財政の実況については、更に詳細なる調査を遂げ、追て整理案を具し、臨時総会に提出し諸君の賛同を求めんとす

 −社長就任理由−
 不肖嘉定今回計らずも株主諸君のご推薦により本社取締役社長の重任を汚すことになれり。そもそも不肖が本社に関係するに至りし動機は、当初金沢出身の藤江永孝氏より本社の現状について協議を受け、進んで事業経営の衝に当たらんことを、勧誘せられたるも、平素頗る多忙の身、且つ不才にして、到底この重責を全うする能わざるの故をもって、再三固辞せしも、その後重ねて同氏及本社重役諸氏より、懇談を受くるに到れり。ここに於いて年来窯業に従事するの身として本業の隆盛を企図する一念より、公平なる条件のもとに、協議成立することを得ば、不肖ながら経営の任に当たらんと決意し遂に協議に与ることとなれる次第なるが、爾来30余日間或は金沢に来りて会社の内容を調査し、次いで本多、横山両家及当地重役諸氏に会見し、或いは東京に出でて前田家、早川氏及本社重役諸氏らと会同して、しばしば交渉を重ねその結果として、前記大株主諸氏の後援により、不肖この職につき将来の経営に当たることとなれる次第なり。而して不肖が敢えてこの難局に当たらんとするも何等他意あるに非ずして、ただ本邦斯業の発達を熱望するの余り一片の義侠心に出でたるに他ならざるを以て、幸いに微意のあるところを諒とせられんことを望む。

 −将来の計画−
 過般来不肖が会社の内容を調査せる結果により、将来の計画について略序せんに・・・会社の内容を調査せる結果によれば、62,500円(在庫品3,500円を引き去る)の売上げに対し、約18,000円即ち約28パーセントの損失あり、若し払込額に対し、仮に8朱の配当為さんとせば、18,000円の損失を補い、外に10,000円合計28,000円の利益を得ざるべからず、如何に節減を為すとするも、62,500円の売上に対し12万8千円の利益を得んことの至難なるは数字上より見て明らかなる事実なり、資本の割合よりすれば、少なくも一期間10万円の売上をなさざれば、到底満足なる利益を得る能わず、而かも1カ年近々12〜3万円の売上げに対し、40万円以上の資金を固定し、徒らに形式的なる多額の経費を支出して確実なる利益を得ざりしは当然のことに属す。
 然り而して内地において、1カ年20万円以上の販路を求むるは容易のことに非ず、なお強いてこれを拡張せんとせば、労多くして効果少なきは従来の経験に徴して明らかなり、茲に内地用として、食器のほか衛生器、建築用品を製造し、一面には海外に販路を拡張し、内外併せて1カ年25万円以上30万円の製造額を有するまでに、発展の手段を講せざるべからず。不肖の信ずるところによれば、将来十分販路に努力するにおいては、確かに内地向け食器15万円、衛生器及び建築用品3万円、輸出品12万円即ち1カ年30万円の需要あることを信ずるものなり。

 今後における予算の概算を左に掲ぐ

1.75,000円の製造高に対する実費間接費及び利益の割合左の如し

 第1 製造実費
36,247円61銭  職工賃銀、原料、燃料、消耗品
8,781円07銭  画付費
1,733円90銭  荷造費
1,500円00銭  雑費
1,929円45銭  運賃
 合計 50,192円03銭
 すなわち1万円に対し6,700円(6割7分)の製造実費を要す

 第2 間接製造費
金 2,847円05銭  給料その他
 すなわち1万円に対し380円(3分8厘)の間接製造費を要す

 第3 営業費
金 11,800円也  給料、通信費、広告費、修繕費、保険料、利子、税金、旅費
消耗費、交際費、雑費等
 すなわち1万円に対し1,573円35(1割57)の営業費を要す

 結局1万円に対し、合計8,653円35銭の総経費を要するも以て差引1,346円65銭すなわち1割364毛の純益を得る計算となる

今半期の売上に応じて純益を割り出せば左の如し

売上高(単位円)   利益(同)
65,000の場合    6,802
75,000の場合   10,102
85,000の場合   13,402
100,000の場合   18,352
125,000の場合   29,952

如上の計画により専ら販売に重きを置き只管誠意を以て努力をせば遠からず此の頽勢を挽回して以て相当の効果をあげ得べき事を自信す      松 風 嘉 定

 こうして新社長の熱烈な会社将来への青写真は、株主の諒解を得、12月払込を無事完了したが、前田家ら有力筋からの払込の先払いを受けたことは前に述べた通りである。
 さて新社長が前重役らと事務引継を行い、本格的に仕事に当たったのは11月である。10月に新旧重役交替の際の経理事情は、上季3カ月で、すでに1万1千6百万円の損失を生じている。これが整理対策として、重役の無報酬と社員の整理淘汰、進んでは事務の刷新と製造販売の調整を期し、従来の見込品製造を停止し、同時に積極策として上海・香港・マレイ半島・蘭領ならび英領印度に販路拡張と試売を兼ね視察員を派遣しすでに幾多の注文に接しこの方面の発展を期待している。

赤字10万円の10期決算
 その(45.7〜大正元12)にわたる12月期決算内容は以下の通り(単位円)

 [収入]
   64,061 (売上高)
   39,820 (在庫高)
   8,683 (半製品在庫)
   300 (雑収入)
  112,864 ( 計 )
 [支出]
       220,542 (総支出)
  107,677 (差引)
   7,700 (諸積立金損失補填)
   99,877 (総損失金)

 これが松風社長就任当初の、いわば整理決算白書である。時は恰かも経済界の不況期に直面し、在庫品の処理と販売実績を上げんとしても、徒らに労多くしてその効少なく欠損金を縮少することは出来なかったが、下季10月以降の清算では、むしろ1千余円の利益を得整理の結果が現れたと社長を喜ばせた。

第10期決算と事業に関する詳報
 松風社長はこの決算報告書に併せ、第10期事業に関する詳報を株主に送りおおむね、次のような項目で見解を述べている。既述の株式払込に伴う事情説明といい、この詳報を書いてわざわざ株主に送付するといい、如何に会社再建に新社長が意欲的であるかがわかる。

−第10期事業に関する詳報−
 1.大要
 2.払込と減資と前後せし事情
 3.債務の処理について
 4.欠損について
 5.当期下3カ月における利益
 6.減資のやむを得ざる理由
 7.改善せし要項(附4期間比較統計)
 8.現在注文残高と仕向け地
 9.東洋方面における販路
10.製造部改善の一班

 そこでこの中から主要の点を選び紹介してみる。

 詳報の内容
1.大要(略)
2.減資と払込と前後せし事情(略)
3.債務の処理 当社の債務は9月末13万円に達したが、さしずめ10万円は株主の払込金で弁済せねばならない。但し払込総額は8万円(1万6千株)なので2万円を不足するがこれに多少の流動資金に充てんがため某銀行に交渉し、借入の内諾を得た。これにより財政状態は今後円満に進むであろう。
4.欠損について 当期10万7,600円を計上したが、これが内訳として主なものは1.59千円の製品損失金がある、期末製品在庫高は7万3千円であるが、この勘定は従来委託品をもって正当の売上勘定に記入しこれを未収入勘定に振り替えていた。今度はそれを在庫品と見做し清算の結果、未収入勘定より委託品額を控除しその控除した金額2万5,500円を在庫品に加え、9万9千円の在庫品となった。されどこの在庫品価格は正常でない、これを正常に再評価したので59千円の欠損額となったのである。その他各面を整理せる結果合せて10万7,700円の欠損となった、しかし当期下3カ月は1,389円の利益を生じ改革の実をあぐるものとして本懐である。
5.当期下半期における利益(略)
6.減資の止むを得ざる理由 今後利益を生じても損失を補填せねばならぬので配当を為すことは出来ない。この際大々的に手術をして会社の基礎を安全ならしめたい。
7.改善せし要項 これは報酬と給料(社員淘汰と重役の報酬廃止)職工一人1カ月の平均製造数、販売高、職工一人に対する販売高、販売種別、現在の注文残高、仕向け地、東洋方面における販路、製造部改善の一班など7項目になっているが、今これらを要約すると職工一人の月平均生産は上3カ月447個、下3カ月611個(注44年上期453個)となり、販売高は当期上3カ月24千56円、同下3カ月4万4円となって(注=44年下期5万2千872円)改善の跡がみられる。
 また販売別では洋食器1万9千100円、日本食器1万6千380円、軍隊5千936円、輸出1万9千141円、建築用材3千750円となり計6万3千965円である、輸出向、洋食器、日本食器が高い比率である。
 10.製造部改善の一班 輸出品は形状単純として種類少なく数量多数にして頗る機械製造に適するものなので(製作部)では日給制度を廃し、受負制に改正しつつあり、これに依て従来の製作費約3割余を減額出来る。次に(焼成部)では従来使用の匣鉢は不完全なので之が改良鉢の製作を急いでいる。この改良鉢を使用するときは、締焼では旧8千個、新匣15千個、上薬焼で旧9千個、新16千個、上絵窯旧370個、新1,200個となり能率大いに上がる。
 なお窯焼きは職工は一と窯に4人従事したが昼間2人夜間3人に減じた結果、締焼で1カ月10回、上薬焼で同15回の窯焼に対し延べ人員95人減ずる事を得た。なお根本的研究を要するのは製品の焼成火度である。欧米ではゼーゲル4番(火度計)前後の火度を以て適度とするが、本社のものは9番を以て適度とし従て燃料の消費高が高くなるのではなく火度が高いので諸種の障害之に伴い原価に影響しているので今後の問題として研究する。

第11期利益に転ず
 第11期(大正2年1〜6月)になると、東洋向け輸出が順調なので、特殊の内地向け注文品を除き海外輸出本位に転換することになり、これに伴い器具設備も急速に整備するため、日夜工事を急ぎ、6月中旬これが一部完成した。販売高は8万832円、純益6千5百円と創立以来の成績である。

  [収入]    80,832円(売上高)
          28,087円(製品残高)
          9,900円(半製品在高)
          16,324円(製造用具及び仕掛材料)
          102円(前期損失補填残金)
          493円(雑収入)
         135,740円(合計)
  [支出]    20,557円(営業費)
          46,959円(製造費)
          39,820円(前期製品在高)
          8,683円(前期半製品在高)
          13,663円(前期型及匣鉢在高)
         129,684円(合計)
          6,056円(差引当期利益金)
          6,056円(次期繰越金)

第12期配当5分復活
 第12期(2年7月〜12月)内地は不況の影響を蒙るも海外よりの注文殺到し、到底現状ではその余裕ないので極力増産に努めたが工員の大多数は就業日浅く予期の成績は挙げ得なかった。それでも9万1千70円の記録的売り上げとなり、7千560円の利益をあげ5分の配当を復活した。
 なお当期末の主な株主名を掲げれば次の通りである。
 2,175株(前田利為)750株(早川千吉郎)641株(横山隆俊)354株(今村繁三)315株 (横山章)285株(横山隆俊)250株(能沢長太郎)230株(松風嘉定)225株(速水太郎、 横山隆興、村井吉兵衛、浅野総一郎)186株(林武八)150株(鶴忠五郎、南郷次郎、前 田利功、前田栄治郎、木村精一、久徳鉄太郎)114株(田守太兵衛)111株(石谷伊右衛 門、本多政以)以上100株以上

 −松風筬言−
 原料の買入は高い安いの気がつくが製品の1割重いのに気がつかぬ石炭も相場より5歩 安く買い入れて天狗になっているが、大きな匣鉢へ小さなものをいれたり改良もせずに2 割も3割も損なことをして気が付かぬ。
 今一歩進んで間詰め物(小物)を考え匣鉢の中を少しも空にしておかぬことが肝心である。
 利益は僅かなところに存している。下た物、間詰物の如きに留意すれば優に一割以上の利 益が生ずる。

大正3年(1914)

第13期(業界生産過剰で苦境)
 この期(大正3年1〜6月)取締役改選の結果、松風社長らが重任したが、当期の営業概況報告によると”昨年末我財界の萎靡(び)依然として癒えず、一般の商況為めに振るわざるもの甚だしく、殊にわが窯業界において内地を目的とせるの徒生産過剰の苦境に陥いり業を廃し産を倒すもの頻々として相次ぎ前途なお悲観せらるるものあり”−原文
とあり、会社も所期の成績を挙げ得なかったが、海外需要は旺盛、内地も軍隊向けがいいので内地不況のシワ寄せは免れ得た。しかし工員の未熟や燃料高で9,558円の純益に止まり、5分配据置となった。

  [収入]   102,534円(売上高)
          26,327円(製品在庫)
          21,597円(半製品在庫)
          23,407円(材料仕掛その他)
          446円(雑収入)
         174,299円( 計 )
  [支出]    23,594円(営業費)
          79,474円(製造費)
          39,849円(製品半製品在高)
          21,792円(仕掛品等)
         164,792円(合 計)
  [差引]    9,588円(利益金)
          3,316円(前期繰越)
          12,905円(合 計)
          3,075円(後期繰越)
        配当5分(据置)

第14期(欧州戦乱起る)
 当大正3年12月期は支那の銀貨暴落の影響大であり、また欧州戦乱の勃発で東南アジア一帯の取引に打撃を受け、注文取消の飛報に接し、一面内地不況も深刻、しかも前期末より、生産力の倍加のため、拡張工事に着手しているなど、経営は難行を呈し操業中止とまで悲観されたが、養成工員の散逸を恐れ、言外の苦痛を耐えつつ当期を終了した。

  [収入]    99,925円(売上高)
          59,619円(製品半製品在高)
          24,502円(仕掛品その他)
          348円(雑収入)
         184,397円(合 計)
  [支出]    26,297円(営業費)
          78,909円(製造費)
          26,327円(前期末製品在高)
          21,590円( 〃 半製品)
          23,400円( 〃 製造用具)
         176,517円(合 計)
  [差引]    7,880円(利益金)
          3,075円(前期繰越)
            配当金年5分

大正4年(1915)

第15期も苦難続き無配
 当期(4年1〜6)も引き続き困難の状況で利益は517円に止まり再び無配とした。支那の銀暴落、日貨排斥と打ち続く支那向け輸出は取引を皆無とし、シンガポール中心の幾多市場も同様その厄に遭っている。一方工場の拡張工事は本年3月一段落としたる反面新規工員が約3分の1を占めているので能率も一時低下し経費の膨張となった。

  [収入]   102,855円(売上高)
          70,679円(製品半製品在高)
          26,605円(製造用具仕掛材料その他)
          198円(雑収入)
         200,339円( 計 )
  [支出]    27,323円(営業費)
          88,375円(製造費)
         124,699円(前期末在高)
          24,503円(製造用具仕掛材料)
         199,821円( 計 )
  [差引]    517円(利益金)
          1,555円(前期繰越)
          2,073円( 計 )
          2,073円(後期繰越)
            配当(無)

第16期(設備拡張の効果現わる)
当(大正4年12月)期は、支那・印度市場は引き続く銀貨低落で輸出は不振、特に日印間運賃は、戦前運賃の5倍に達し、新開拓の濠州方面も同じく3倍で取引不利である、反面シンガポールの日貨排斥終熄などなり。本春一段落した拡張後の成績が、諸材料の暴騰等の悪条件を克服し売上げは17万6,800円、1万7,100円の純益となり配当7分を復活した。
 ◇小黒安雄氏支配人取締役専任、1月30日の16回総会で取締役一名増員、小黒氏は支  配人取締役となった。

  [収入]   176,851円(売上高)
          73,060円(製品半製品在高)
          26,474円(製造用具仕掛材料その他)
         276,488円( 計 )
  [支出]    45,026円(営業費)
         117,061円(製造費)
          70,679円(前期末製品半製品在高)
         259,373円( 計 )
  [差引]    17,115円(利益金)
          2,073円(前期繰越)
          19,188円( 計 )
          3,988円(後期繰越)
             配当7分

××××強風中に工場大半焼く××××

大正5年(1916)

第17期(4月13日工場大火災)
 前半は好調だったが4月13日工場内より出火建物の6割と機械の一部を焼失した。焼失したのは窯場出荷物の全部及び絵付場と製作物の一部であるが、幸いに窯全基無事に残留し、且つ機械場は罹災を免れたので、仮工場を建設一週日を出でずして操業することが出来た爾来復旧工事を急ぎ、全規模を約5割増に拡充し、大正元年末には窯数8基であったが、今期末26基に増加し職工数1千名に達せんとしている。しかし火災のため4,700円の欠損を生ず。(火災記事別項にあり)

  [収入]   178,002円(売上高)
          70,682円(製品半製品在高)
          31,276円(製造用具仕掛品)
          169円(雑収入)
          59,033円(保険金)
         339,166円( 計 )
  [支出]    42,684円(営業費)
         118,677円(製造費)
          56,787円(前期末製品半製品在高)
          83,027円(火災損失)
         343,902円( 計 )
  [差引]  ▲ 4,736円(損失金)
       内  3,988円(繰越益金)
  [再差引]  ▲ 748円(後期繰越損金)

火災善後措置重役会決議
 本社火災善後策として臨時所要金額75,000円を前田家より借入、前田家で難しければ、1株に付7円50銭の払込をとる。保険金受領の上は勧銀へ返金のこと。但し返金額は出来る限り少額とすること。これは結局払込をすることで7月25日第4回払込(7円50銭)大正5年9月30日徴収を決議した。

大正5年工場火災記 −異例の軍隊消火協力−

(まえがき)大正5年4月13日夜、窯場から出火、折柄の強風に煽られて延焼し、軍隊まで異例の出動消火に当たるという当時の金沢における大火災である。ここに当時の新聞記事及び編者の市川潔氏が目撃した当時の回想を整理したのが以下の大正5年の工場火災記事である。

強風の中を出火
 大正5年4月13日午後11時40分頃B第8号窯の破裂により亀裂した窯の隙間から1,800度という強烈な熱気を帯びる火炎が奔出、凄まじい勢いで、またたく間に屋根に燃えつき折柄暴風警報下の東北方の強風に煽られ、窯場を一なめし、更に他工場へ延焼、あまつさえ、当日は社の側面を貫流する鞍月用水が、折悪しく「せき」を止められていたので水利の便もなく、ために火勢は、一大火玉となって、猛威を逞しうし、各棟を紅蓮の焔で包まんとした。漸く用水の「せき」が撤去されると、時を同じくし、市内各消防組も出揃い、近郊の町村消防組も続々駆けつけて、必死の消火に努めたが、暴風のため、一と度薙たてられた火は、聊かも衰えず、刻一刻と大火になっていく状勢を気遣われた。

第9師団司令部の出動命令
 然るに第9師団司令部でも、激しい火災を眺め、わが国における硬質陶器で重きをなし、金沢の大工場である工場を烏有に帰せしめるようであっては、まことに遺憾である、又この暴風により、万一附近民家にも延焼すれば、大事となり、その災害は測り知れないものがあるとして、直ちに軍隊に出動を命じ、一般消防組に加わり、必死消防作業に従事したが猛烈な火勢で火は火を呼び、焔は焔を誘い、軒端からは火の氷柱が幾つとなく垂れ下がり、まさにこの世ながらの地獄を思わせるほどの物凄さとなった。

漸く午後2時鎮火
 このため会社は勿論多数押し寄せた野次馬気分の群衆も、逆に憂色を濃くし始めたが、流石に加賀鳶の名に恥じぬ消防組や一糸みだれぬ軍隊のひるむところなき、渾身の消火作業は、流石の火勢も衰えを見せ翌14日午前2時漸く鎮火した。
 この火災で、工場も遺憾ながら、8分通り烏有に帰す状況であったが、反面若し、あれだけの消防組、軍隊協同一致による消火活動が無ければ、全工場の全焼は愚か、民家にも延焼し、金沢大火という一大事に至るやも知れない、実に申訳のないことと、会社も衷心消防団、軍隊の消火活動で感謝の意を表し、お礼挨拶を行った。殊に異例というべき、今回の軍隊の出動は、より民意を強め、且つその堵(と)に安んぜしめたる物心両面の効果は測り知れないものがあるとして金沢市長山森隆氏は翌朝第9師団司令部に出頭し、市民を代表し厚く感謝の意を表した。

会社の出火損害
 この火災で蒙れる会社の損害は、焼失面積1,900坪に及び、建物4棟全焼その他金額は時価で18万円、機械、製品、未製品の他7万余円計25万円の多額に達し、今日の時価にに換算すれば、それこそ三億円以上に達するであろう。尤もこれに対し17万1千円の火災保険に附してあるのは、不幸中の幸いである。しかし当夜消防手、工員等8名の負傷者を出したなど、如何に猛火の凄まじかったかを物語るものである。

小黒支配人の復興あいさつ
 さてこの災禍のため、他ならぬ最も心配したのは工員であろう。工員の心理を察すれば、この災厄により工場が長期にわたり、休業、或いは閉鎖するようなことになれば、700名の従業員及び家族の生活問題にもなる。こうした憂慮に対して、会社側では、ここでへこんでは大変だ、むしろ復興へのスタートと時を移さず、早々応急措置を講ずることに決意翌14日黎明小黒支配人は全従業員にこの決意を知らそうと構内に工員を集め、左の様な復興に関する挨拶を行った。
 当社は諸君も知っているようにわが国硬陶界の元祖と称せられているばかりでなく郷土にとって極めて由緒深い歴史を持っている県下に於ける大工場である。不幸にも今回災禍を蒙りほんの一時的とはいえ、事業に頓挫を来たしたことはまことに遺憾千万である。さりながら総数25本の窯の中、18本の大窯の中の数本が破壊して使用に堪えなかったのみでその他は全部そのまま使用し得られるのであって主なる機械類もまたさしたる損害もなくて使える見込みである。よって取りあえず、これらの窯の上に雨露を凌ぐ程度のバラックを建てその間空白を置かないで操業し復興に努むるとともに営業を持続する方針である。わが社は今日の災厄の不幸にたゆまず屈せず更に明日への飛躍の旗を押したて従来の力を倍加して益々勇猛邁進すべく堅き決意を有しているのであるから諸君もまたこの決意を体しその業に精励していただきたい。ついては諸君は昨夜来防火作業で疲労しているであろうが、まず第一に焼失後の整理を励みつぎつぎに行うべき復興作業に対し心を安んじて精進して貰いたい。
と大いに工員の士気を鼓舞したので工員もほっと安堵して焼け跡の整理にはげみ焦土の廃物排除のため、玉川通り(現在専売公社倉庫のある三角地帯)の林屋家所有の茶畑跡を林家家の好意によって1カ年の契約で借受け廃物をここに搬出するとともに一方製品を詰めこんである窯の上に仮屋根を葺き窯に火入れの出来得るよう設備を了して製造に着手し全員を挙げて復興に大努力を傾けたからみごとにこれを克服し誰もが愁眉を開くことが出来た。
 ◇当時当社は海外よりの注文が殺到しこれが生産に追われていた状態であったので700名の工員で、到底需給相伴う製品の産出をみることは至難であったところから更に100名を増員し800名とする計画をたて工場の増築の設計もすでに了し何時でも入札に付す運びとなっていたばかりである。

当夜の松風社長
 この火災にあたり京都の自宅にあった松風社長は、急電に接し急拠出発、14日来社し、火災状況を詳細に取調べ善後策を協議し、左の如き声明文を発表した。
 (原文)
 会社の建物を、大部分焼失せしめたことは株主各位に対し、何とも申しわけなく、かつ一般市民の方々を騒がしたことに対してもまた心からお詫び申しあげる次第である。この上は種々善後策を講じて、遺憾なきを期したく思っている。この災禍によりてもわが社の取引上には何等の変化はなく、社業は益々有利の域に進んでいる今日、訓練ある工員を有しているのと幸いに窯及び機械にはさしたる損害もなく、引き続き使用し得られるのであるから出来得る限り、復旧を急ぐと同時にこの機会を捉えて一層規模に改善を加え、一段と飛躍的に事業を経営して行きたいと考えている。とくに当社の株主には最も有力なる前田家横山家を始め、中央地方における財界その他の権威者が参画しておれれることを、思えば大いに意を強うするものに足るものがある。元来人間には生命があるけれども事業には決して生命はない。故にこれから一入その事業に対し奮闘努力して、このたびの損害を償い以て社の発展に資するところあるべく期している。すでに来沢の途中列車内にて確固たる腹案を編成したほどで、不易の精神を以て猛進すべく決意している。火を取扱う作業であるから平素において万一の過失なきようお互いに細心の注意を促していたに拘らず、今回の災禍を招いたことは、返す返すも残念千萬に存じているのであって昨夜本社から電報に接した時、配達夫が門を叩く音を聞いた途端に自分は予て気にかけていたところから、若し金沢に変事があったのであるまいかと直感して妻に対してそのことを語ったくらいであった。電報を手にして披見すれば、果してそうであった。将来かかることを絶対に繰り返さないように、一層火の要愼につとめなければならないと思っている。工員に対しては15日から平常の如く出勤せよとそれぞれ提示した。
と失火を詫びつつも復興の意気は頗る軒昂たるものがあった。
 なお期別営業報告書によるこの火災状況は、別項に記されてあるが(74頁)焼失したのは、窯場出荷場の全部及び絵付場と製作場の一部であるが、幸いに窯全基無事に残留し仮工場を建設1週日を出でずして操業することが出来た。
 そして「社長は1週間焼跡の仮小屋に駐まり、罹災の善後策を講じ、早くも1週後には輸出向け出荷を了した。しかし一方には再建策の準備に着手した。その果断決行の統率ぶりには、同氏の社長たるに好感を持たなかった者までも、一斉に驚嘆し火災を機会に攻撃の火の手を揚げようとしていた人々までが一言の避難の言葉を発し得なくなった=小倉支配人談から」というのである。もともこれら応急資金が自己資金で出ないので4月15日重役決議を以て前記するような方針をきめ善後策を手配した。

その後の火災の防火措置
 大正年間の災害の大きなものは、大正5年4月の工場火災であるが、その後も乾燥室(成型、施釉)から小火程度、中火程度のものは数回あった。しかし大正5年の火災後製匣部の20馬力モーターにピストン式消防ポンプを取りつけ、ホース、筒先を備え、水は工場内を貫流する用水からとったために、用水の停る時は、下流出口のせきをとめて水を用水槽に貯えて警戒した。時々消火演習をしたことはもち論で、これがためその後数回これが役立った。昭和4年金沢市に上水道が布設されたが、その後私設消防栓が許されるに至り、工場内へも消火栓を入れた。
 一方工場の要所には、当時全盛の硫酸式消化器を、これは工場自製のものであるが十数本あて計3百余本(1本10立入)置き赤色ランプでその位置を標示してあったがこれが大いに役立ち小火に終わらせたことが数十回あったが、この消化器は年一度定期的に薬液を取り替える外、振動による二種の薬品が混交することによる取り替、使用による取り替えなどのため専属に従業員一人が当っていた。昭和になり近隣の金沢貯金支局の火災に際し、この工場消火栓は風下である工場への飛火を防ぐのに役立った。

第4回払込完了
 大正3年1月25日重役会で事業拡張費として7万円を支出これを借入金で処理することにしたが、返済方法として大正5年3月末1株につき7円50銭で第4回払込を行なう旨を決議したところ、大正5年1月25日の重役会で、払込日を4月30日に延期、さらに4月9日の重役会で、これを9月30日の払込日に決議した。たまたま大正5年4月13日の火災発生あり、その結果同15日の役員会で使用目的を火災処理資金に変更したが、7月25日の取締役会で改めて払込徴収を決議払込日は前と同様9月30日とし、7月31日付で株主に通知書を発送した。払込銀行は加州銀行、米谷銀行金沢支店、明治商業銀行の3行である。これは11月11日払込まれ、払込額は32円50銭となり、未払込資本金は30万円から21万円になった。

第18期(好調1割強の配当出す)
 この期(大正5年12月期)欧州大戦の余波を受け、諸物価昂騰原料高や海陸輸送力の不足も加わったが、前期よりの継続工事も漸く完成した、新規募集工員の養成時代でもあり、予期通り行かないが、29万円の総収入、29千円の純益を出し、配当1割強と復配した。1割配は創立来始めてで、大戦景気が業界へ浸透した一面を語る。なお営業報告損益計算書は当期より売上でなく、総収入金、総支出金の形式となった。
  総収入金         294,070円(内売上 220,000円)
  総支出金         264,933円
  利益金           29,137円
  前期繰越損金        748円
  再差引利益金        28,389円
  配当金           17,280円
  後期繰越金         3,809円

大正6年(1917)
欧州戦乱中の好景気時代来る

 この頃からそろそろ第一次大戦景気の影響が現われ社会における期毎の業績も目立ってよくなって来た。

第19期創業来の収入
 当期(大正6年6月期)一般の商工業は欧州戦乱の影響を受け好景気であるが、輸出を中心とする当社では運賃と売上高の約3分の1を占める石炭の昂騰、運賃高で経営困難を極めている、殊に本期間製品の大部分は今日に比し物価のやや低廉なりし前期間の註文残高にして一層操業上苦痛を感じたが技術上の進歩も加わり2万7千200円の利益を挙げた、なお総収入金37万円は創業来の収入である。
    大正6年上半期損益計算書
    369,279円 総収入金
    342,033円 総支出金
     27,245円 差引利益金
     3,809円 前期繰越金
     31,054円 ( 計 )
◇取締役再選 2月2日の第18回定時株主総会で取締役3名、監査役2名の改選の結果松風氏始め何れも再選重任した。

朝鮮若しくは山口に本社分工場設置決議
 7月25日重役会を開き朝鮮若しくは山口県に本社分工場を設置せん事を決議している(この項松風社長の朝鮮進出の項目に詳記す)

第20期大巾利益出し1割2分配
 当期(大正6年7〜12)前期に引続き好況を呈し、各方面得意先との関係も円満、その声価は東洋市場でいよいよ揚る、尤も燃料初め物価騰貴は相変らずコスト高となるが、それにしても当期売上36万3千4百余円は前期に比し29%の増加、前年同期に比し52%の増加である大戦による好況を裏書しているようだ、当期配当1割2分の増配である。
    470,618円 総収入金
    437,464円 総支出金
     33,153円 差引利益金
     4,654円 前期繰越
     37,807円 合計
     23,400円 配当金(1割2分)
     6,307円 後期繰越

大正7年(1918)

第21期引続き1割2分配当
 当期(大正7・1〜6)の概況について、営業報告書は次のように述べている。
 −−元来本社の事業は海外輸出を目的とし、所謂戦時の思想に浴すること少なく、これに反し内地事業は一般に旺盛を極め、自然、運営、材料及び工賃非常に暴騰せるも、本社製品の売価これに伴わず、却て営業上不利益の結果多く努力の割合に効果の現れざるは、深く遺憾とする所なり、幸い欧米に取引関係少なく世上に喧伝さるる禁輸の災厄を蒙る恐れを有せず、前期に比すれば、販路は益々拡大せられ、市場の声価年と共に加われるを以て、この際更に技術上の研鑽と製作能率の増進に努め戦後本社の基礎一層確実ならんことを期す−−
 営業概況における書きぶりもいろいろあるが、これもその時代を反映する文体として興味がある。それはとに角第一次欧州戦時下の会社経営の考え方を示している。

北村弥一郎氏取締役就任
 先に死去された会社顧問藤江永孝氏とともに林屋組時代から会社に貢献のあった、前東京高等工業教授北村弥一郎氏は1月29日の総会で取締役1名増員に伴う候補者として推薦せられ且つ技師長となった。
  大正7年6月期業績
    509,934円(総収入金)
    477,968円(総支出金)
     31,965円(差引利益金)
     6,307円(前期繰越)
     38,273円(合計)
     23,400円 配当金(1割2分)
     7,073円(後期繰越)

第22期
 当期(7・7〜12)製品売上高は48万9千2百円と記録数字となったが利益も4万7千574円という前期に比し42%増加である。これは払込資本金39万円に対する利益率は24%となった。しかし米価昂騰や流行性感冒が月余に渉り、工場を襲うなど製造能率も減殺されているに拘わらずこれだけの利益をあげ得た。
    596,268円(総収入金)
    548,694円(総支出金)
     47,574円(差引利益金)
     7,073円(前期繰越)
     54,647円(合計)
     23,400円 配当金(1割2分)
     19,347円(後期繰越)

第23期休戦下の営業
 当期(8・1〜6)においてさしもの第一次大戦も休戦となり期中殆んど講話審議中にあり、これらを反映し、一般商況も頓に不活発、既約注文品も取消しが続出する状況である。ところが賃金の方は高く操業の上で苦痛を感じたが、それでも4万7百円の当期利益金を出し配当1割2分を据置した。
    596,610円(総収入金)
    552,328円(総支出金)
     44,281円(差引利益金)
     40,781円(再差引利益金)
     19,347円(前期繰越)
     60,129円(合計)
     23,400円 配当金(1割2分)
     26,529円(後期繰越)

朝鮮硬質創立の私信
 大正6年6月松風社長は親友某氏に次の私信を送り渡鮮の事情につき心境を表明している。
 (前略)今回渡鮮の目的は土地問題に法律上の支障を生じ候為交渉を要し当局と打合せのために御座候大局は更に変化無之候
 小なりとも雖も百万円の事業を片手間仕事に組織するには一寸骨折れ申候個人主義から見れば一つの笑はれものに候
 元来硬陶は関係当初より一の敵本主義に出でしものにて相当整理の実を挙ぐれば他日必ず其関係筋を基礎として一と仕事せんと目論見したものにて申せば硬陶は第一階段、朝鮮は第二階段に外ならず未来の事彼是と案じて見れば際限無之、要するは男子は其の目的に向って猪突猛進すれば何程かの効果現れ可申と信じ居候朝鮮に計画するなど聊か突飛に候え共3、5年の後には何とか結論相付き可申朝鮮で仕事して朝鮮を目的とせざる点に朝鮮の仕事の真価有之候
 京都も日本科学陶器株式会社として組織しS.C.P.を土台として着手の予定去る2日既に土地買収済に御座候
 金沢、朝鮮、名古屋、大阪、京都へ打ちし捨石が向後の十年に首尾能く往けば一入の御慰に御座候云々(以下略)
 この私信でも分るような朝鮮進出動機であるが、会社はその前提として、先に大正6年7月重役会で朝鮮若しくは山口県に、本社分工場を設置する件を決議し、次いで大正6年12月朝鮮硬質陶器会社の設立となった。松風社長とすれば、会社は今こそ景気はいいが、平和後における激しい対外競争に備え、金沢工場のみでは行き詰るとして、対岸朝鮮に眼を向けこのような重役会の決議となったのである。

朝鮮硬質陶器会社設立
 この書翰をみると、彼の気宇の大きいことが分る。成敗利鈍はさておき、男子たるものの本懐ということで、布石したものの如くであるが、社長としては大正5年における火災後の善後処置も終り、戦時中の好景気がなお続いている間に、何処かの地の利を得たところで、大いに伸びなくてはと、まず釜山に着目した。実は氏の念頭には、豫て日韓併合後、自分の専門の道を以て、朝鮮に若干の貢献をなさんとの志がある。よって寺内総督と諮り、内地において自費を以て京城専門学校卒業の鮮人20有余名、釜山人約30名を金沢に連れて、養成するなど準備していたのであるが、機熟したが大正6年12月3日長谷川総督時代に釜山の入口を扼する牧之島(絶影島)に朝鮮硬質陶器株式会社を設立し、専ら朝鮮人を養成し、その製品をハルビン、大連及び印度、南洋方面に輸出することにした。この会社の公称資本100万円で第1回払込は35万円である。朝鮮人を使用し、朝鮮人の技術によって生産させるという氏の主張は総督府にも認められ、これに対する総督府の助成もあり、敷地は陸軍省用地の払下げを受け操業へ漕ぎ付けたものである。
 こうして金沢、朝鮮の両社は姉妹関係に立ち、両々相まって好成績を挙げる段取であり、会社当事者の意気込も大きいものがあった。小黒専務など、そのため月の半分は釜山に出掛けて整備強化に努力したが、現在本社取締役工場長松本三則氏の厳父上山節氏は後釜山本社の常務取締役工場長であるが、設立時において、金沢工場で朝鮮従業員の訓練に当り、また生産分野を確立する意図で朝鮮は輸出品、金沢は生産に多年の経験を有しているところから、優秀な技術を生かし、販売量は少ないが高価で捌かれる内地品を製出する方針であり機を見て、両社を一本化に統合し、長短相補い、有無相通ずるところの新会社を設立することに目標を置いて事業を進めることにしたのである。
 なお朝鮮人従業員の訓練では、釜山工場建設前に金沢で指導を受けた者は、柳在乙、港天裕、炉炳帰君ら9名で、当時長町4番丁に寄宿舎を置きそこから通わせた。しかしその後本社へ10数名来所したので会社では玉川町通り本社正門前の向側空地に仮宿舎を建て宿泊させ訓練を強化した。

朝鮮硬質陶器会社概況
 ここで朝鮮硬質陶器株式会社の概況を説明しよう。

 朝鮮硬質陶器株式会社
  1.位置    朝鮮釜山牧ノ島
  1.使用敷地  2万4千坪
  1.建物    4千坪
  1.従業者   300名
  1.使用馬力  250馬力
  1.生産年額  70万円
  1.将来の予定 工員1千名
    生産年額  240万円

神戸に一時本社を置く
 なお朝鮮に工場が出来たので本社所在地が問題となり、色々討議した結果神戸市葺合八幡小野浜の荷造り工場があるので、ここを本社として第1期2期決算の間は此処を本社として事務をとったが総会は金沢で行われた。

”事業案内”より朝鮮硬質内容
 当時会社では朝鮮硬質陶器の沿革及び企業の目的を、金沢の日本硬質陶器と合せ、色刷の事業内容を出し次のように記載している。
◇当会社は世界的常用食器たる硬質陶器が無限の購買力を有するに拘らず、日本硬質陶器株式会社が周囲の事情上大拡張をなすこと能はざるがため、同社の首脳者及び株主らを網羅し同社と姉妹関係を以て大正7年釜山に創立せられたるものなり。
 元来多数の職工を要する製造工場においてはその工場を一地方に偏するを以て不得策とするは、もち論にして、烟草専売工場の如き原料収集の便もあれど紡績工場と同じく、成るべく地方に分布的に工場を設くるは、職工募集の便を得んためにして、本社を釜山に設立せし所以亦ここにあり。  釜山は欧州の基点にして、海陸の便あると、加ふるに総督府及び道庁より原料の特別積出しと職工養成費の補助を得るの特典を有し設立日尚浅き工事漸く竣工し現に職工充実中にして経験に富む技術者及び職工と販路又共通の便益を有し、しかも燃料原料工賃の上において金沢を凌駕し、日本硬質陶器株式会社以上の利益を計上することを得るは、自ら明白なり。敷地総面積約2万4千坪にして、その大部分は総督府より特に30銭乃至80銭を以て、分譲せられたるものにして、附近昨今の地価は平均坪15円以上と称し居れり。
 建物総坪数4千坪として、諸物価騰貴以前の工事に属し従て時価の3分の1にも当らず。地形は釜山港海岸地帯にして、原料燃料及製品等の移入搬出は、工事敷地より直ちに本社特設の桟橋に連絡の便あり。
[役員](社長)松風嘉定(取締役)久徳鉄太郎、横山俊二郎、能沢長太郎、小黒安雄、北村弥一郎(監査役)本多政正、鶴谷忠五郎、大滝新之助
(主なる株主)前田利為、早川千吉郎、今村繁三、村井吉兵衛、岩原謙三、横山一平、竹内直哉、(男)前田利功、久徳鉄太郎、羽野友二、大脇康徳、松原ラ三郎、小池一、小木貞正、柴野義広、矢木亮太郎、松風嘉定、大滝新之助、北村弥一郎、鶴谷忠五郎、中村房次郎、(男)横山隆俊、横山章、横山俊二郎、田守太兵衛、加州銀行、小黒安雄、野村喜一郎、能沢長太郎、相川久太郎、中島徳太郎、久保田全

好況の波に乗り1千万円の新会社案

 さて大正8年後半期になっても、相変らず日本の物価は高騰を続け、その上昇率は、世界の最高位を占め、生糸相場は4300円を唱えて記録破りの高値となり、同じく綿糸も700円台を越え、株式また空前の活況を呈し、鐘紡は600円の声を聞くにいたり、会社の新設拡充は、夜に日に相次ぎ、大正9年1月から4月までに、この増資金額は実に37億円を超過するの好況であった。  松風社長はこの機運に乗じ、いよいよ両社を合併して新たに資本を得、当時としては大会社に位する1千万円の両社合併の新会社を創立することとし、その準備に次項のような第5回払込をしている。

第5回払込
 大正8年6月末現在会社資本金は60万円、内未払込は21万円であるが、大正8年1月25日重役会で第5回1株につき7円50銭あて、7月10日期日で払込みを決議した。しかし7月10日の払込を10月13日に延期し払込を完了したが、この日9万円を払込み払込済資本金は48万円となり、1株の払込額は40円となった。翌年(大正9年)金沢と釜山両社を合併し、一大飛躍をするための用意に行われたもので当面運転資金に使用された。

大正9年(1920)

両社合同準備としての解散
 大正9年1月13日役員会を開き、来る29日開催予定の第24期定時株主総会提出議案につき協議、役員人事について総会終了と同時に取締役3名辞任を申出るが、補欠選挙を行なわず、更に取締役3名を選挙しようというのである。これは両会社を合同させる準備とし解散する準備行為である。なお24期総会でこの重役会決議に従い、取締役3名第24期定時総会終了と同時に辞職、これに対し補選を為さず、新設会社創立のため3月22日臨時株主総会を開催して、大正9年6月18日を以て、日本硬質陶器会社を解散することを承認し、これが清算人として松風、久徳、能沢、小黒の四氏選任された。

第24期1割7分の高配
 当8年12月期における総会議案は以上のとおりであるが、業績でみると、当期末利益金は55千円1割7分の会社創業来の高配を行なった。大戦による好況期最後の景気の現われと見られるものか、それとも金沢・釜山両社合同による御祝儀も含まれているのか、何にしても株主を喜ばしたことである。

    653,040円 (総収入金)
    598,136円 (総支出金)
     54,904円 (差引利益金)
     26,529円 (前期繰越)
     81,433円 (合計)
    配当(1割7分)内普通(1割2分)
     27,883円 (後期繰越)

合併直後の両社勘定
 この24期は合併直前の決算であるので、ここに朝鮮硬質陶器の合併前の決算とあわせ掲げよう。

 第24期 日本硬質陶器 貸借対照表 大正8年12月末現在

  資産の部(円)           負債の部(円)
 払込未済資本金   120,000    資本金     600,000
 地所建物      132,280    準備積立金    22,265
 機械器具      247,293    別途積立金    26,470
 受取手形       263    借入金     181,665
 未収入金      159,932    支払手形     75,815
 貯蔵品       116,471    預り金      611
 製品在高       54,079    未払金      26,649
 半製品在高      24,857    未払配当金    375
 製品用具仕掛材料   44,142    前期繰越益金   26,529
 仮支出        19,225    当期純益金    54,904
 諸預け金       86,859
               合 計     1,006,285     合 計   1,006,285

 第2期 朝鮮硬質陶器 貸借対照表

  資産の部(円)           負債の部(円)
 払込未済資本金   650,000    資本金    1,000,000
 地所建物      148,208    支払手形     5,711
 機械什器      162,157    未払金      478
 製品在高       16,368    当期利益金    2,910
 半製品        25,732
 貯蔵品        20,500
 製品用具仕掛材料   11,900
 仮支出        11,466
 諸預け金       228
 現金         831
  合 計     1,054,215     合 計   1,054,215

 なお朝硬質の当期総収入は54,060円、総支出51,150円、差引2,910円、前期繰越損失885円、純益2,025円(後期へ繰越し)

増資発表直前恐慌来の飛報
 この両社合同には一つの裏話がある。松風社長は、1千万円の新社設立案を決定すると、大正9年2月大阪北浜の灘万で増資の説明会を報道関係に対し行なうことになり、これから主人役の社長が挨拶を行なおうとする折柄一通の電文を受理した。電文の内容は経済界に大変動来株価、商品一斉に暴落するという飛報である。電文をみて社長は一瞬どきりとしたが、この電文通りなら会社の計画は挫折するのが当然である。だが肚はもう定まっている、報道陣の前に立つ面上にはいささかも狼狽気味もない。例の堂々たる態度で両社合併後の事業の進歩発展に順応すべき増資計画を説明し一同から盛んな拍手を受けた。けれど流石剛腹を以て鳴る負けず嫌いの氏も増資後の資本1千万円とは発表し得ず、その場で300万円を減じ700万円と発表した。そういう際どい芸当は氏が寄り寄りやるところであるが分秒の間にとっさに変化の妙を示すところ流石場数を踏んだ社長である。

日本硬質陶器の解散と新会社の設立
 大正9年7月2日新設日本硬質陶器は登記終了し、この日を以て旧会社は解散した。このため9月25日金沢商業会議所で、臨時株主総会を開き、7月2日(解散日)現在の財産目録及び貸借対照表を承認した。新会社の資本金は当初1千万円を7百万円に減じ内払込資本は4分の1払込の137万5千円とした。

 解散日の貸借対照表(大正9年7月2日現在)
  資産の部(円)
   740,000   新設日本硬質陶器株式59,200株(1株の払込金12円50銭)
    10,000   現金
   750,000   計
  負債の部(円)
   480,000   払込資本金
    16,015   準備積立金
    31,970   別途積立金
    27,883   前期繰越益金
    50,000   重役社員その他の功労者に対する慰労金(但し大正9年3月22日臨時総会の 決議により新設会社の株式4,000株を以てこれを充当す)
    10,000   清算費仮受
   615,868   合計
   134,132   差引                         以上

なお功労株としての5万円を除き、負債の部は565,868円となり、資本金より差引184,131円は利益と見做さず、残余財産は新設日本硬質陶器の株式にした、株式なるものは売買時価に変動あるものなれば、これを評価し計算するを至当と認むと註が施されている。

   207,200   59,200株に対する1株の評価9円すなわち1株に付3円50銭の負担
    23,068   再差引

 朝鮮硬質陶器貸借対照表
  資産の部(円)
   430,200   新設会社株式47,800株
    2,500   現金
   432,700   合計
  負債の部(円)
   350,000   払込資本金
    2,025   前期繰越金
    2,500   清算費仮受金
   354,525   合計
   245,475   差額
   167,300   新設会社株式47,800株に対する1株、
評価9円すなわち1株に付3円50銭差額
    78,175   差引

会社合同直前の恐慌来と対策

 松風社長の大阪における増資発表の寸前届いた財界不安の飛報は、果して黒い霧となり現われ、先ず大正9年3月15日証券市場史に記録される株価の大暴落となった。当時米国は平和条約調印を前にして、金の輸出解禁を行ない、正常経済に戻る第一歩を進めたが、かような状勢を前にして、わが国は正貨の激増と相まち通貨は膨張し、空景気をあふってくるので、日本銀行では大正8年10月6日、同11月18日の両度に亘り公定歩合を引上げ警鐘を鳴らしたけれど何分金利の引上率以上に物価も上昇しているので多少の金融引き締め位では、経済界に響かない。しかも輸入はお構いなく増加し、貿易は入超に転換して来たので、正貨を払下現送を実施すると、3カ月足らずして1億円に及ぶ巨額の正貨払下げをみる程である。当局はこの正貨の払下げぶりを一々公表して、世の注意を喚起し来たったのであるが、流石に大正9年1月、36百万円、2月15百万、3月12百万円と入超尻の増大しているのをみると、これまで無造作に貸出していた銀行筋も、引締めにかかり貸出の回収にこれつとめるに至ったのでこれが影響は株式担保で金融を仰いでいた業者の狼狽投げとなり、かかる3月15日の大暴落となったのである。この大正9年の恐慌が、如何なスケールか、株式、物価など主なものにつきその変動ぶりを示すと次の通りである。

  大正9年最好景気   (職工数と船舶数は大正8年末調べ)
  の各種経済統計     大正3年末      大正9年末
               百万円
               兌換券発行高       385         1,439
  正貨有高         341         2,178
  銀行預金         2,345         9,587
  会社資本金(払込)    2,068         8,238
  貿易額輸出        632         2,102
     輸入        648         2,545
  物価平均指数       126         343
  職工数          853千人       1,520千人(8年末)
  船舶屯数         1,577千屯       3,011屯 (8年末)

             大正9年高値         同安値
  鐘紡株          574円(3月)    184円(6月)
  東株           549円(3月)    100円(9月)
  米一升          52円69(3月)   23円48(12月)
  生糸           4,360円(1月)    1,100円(7月)
  綿糸           689円(2月)    281円(10月)
  物価指数         425円(3月)    271円(12月)
  [備考:鐘紡株、東株、米は清算取引相場]
  生糸、綿糸は現物相場、物価指数は日銀調査  明治33年10月=100とす。

 これでみると、東株は大正9年の最低は最高の約4分の1となり、鐘紡株、綿糸は約3分の1となり米価は2分の1となり一般物価指数も約6割余りの下落率に当っている点からみて、打撃の大なること想察に余りある。従って大正9年後半期となると、金融は収縮し、銀行商店の破綻と整理は続出して物情騒然財界は未曾有の恐慌状態に陥り、内外における諸商店の販路は梗塞して商品の売行捗々しからず、会社、商店並びに個人のいずれも資力は盛況時の何割かを減じ、甚だしき全資力を失ったものもあり、信用取引は著しく阻害されまことに惨々たる不況と化した。

苦しい懐中勘定
 こうした情勢において大正9年6月合併新設後の日本硬質陶器も営業振わず、これからいよいよ苦難期に入ってくる。実際会社の金ぐりも苦しくソロバンを買う僅かの金も惜しみ大正10年頃取引銀行の東洋拓殖銀行からソロバンを借りたりしたこともあった。なおこれとは話は別だが、その頃稀らしい話としては、金沢で始めてという邦文タイプライターが同社に備えられパチパチ打ったものだ。

トラックを始めて使用
 その頃、金沢でタイプライターを使用したのは民間では金沢商業会議所と加州銀行位であったという。それから今一つ金沢で始めてトラックを動かしている。その頃当社は原石を鍋谷から鳥越村にある鶴の山という出口与右衛門所有のものに切り替え金沢へその原料石を持って来たのであるが、その頃香林坊の堀田運動具店主堀田真吉という人がその時代で先端をいくのであろうが、トラックを購入したのを会社が使用契約をして鶴来町から運んで来た。そのトラックというのは船のエンジンを車につけたものでヘッドライトもなくアセチレン灯で前方を照らしているという今からみれば大時代のもので、人間が走れば車についていける速度の遅い車である。それでもトラックの威力は当時の荷車に比べては問題でなくこのトラックで大いに役立った。なお直営の鍋谷は服部鉱業へ売り払ったが、この原料山のいきさつにつき今少し述べてみよう。既述せるように会社の主原料は、従来能美郡国府村字鍋谷地内の陶石であり、そこは初めに記したように、林屋組が権利を取り引き続き採掘していたが交通不便なので、同じ陶石が近くの出口精一所有の石川郡鳥越村河合在鶴の山にある上、鶴来を経て金沢へ運ぶに楽な道程なのでこの山を借り受け、会社直営で採石することになった。管理人は鍋谷との関係もあって、鍋谷の東市三郎氏が当っていた。その後会社は直営方法をやめ出口から直接買取ることにした。そんなわけで鍋谷は不採石のまま放置されてあったが、昭和29年たまたま附近の採石を所有する服部鉱業会社の希望で譲渡することになり、当時担当の津田総務部部長が現地で立合って手続きを済ませた。しかるに法務局の台帳に大正初年東洋拓殖会社へ抵当権を設定したままになっているのを発見し、すでに解除した債務であることを手を尽して証明したのでどうやら元の鞘におさまった仕末となった。

重油購入
 ところが焼成窯の内昭和28年1基トンネル窯となり、その燃料に重油を使うことになった。これに伴い重油タンクも要したので、日本石油の手で高岡町よりの空地(元共同便所のあった後)に10屯入2基の重油地下槽を設けることになった。金沢市では消防法による市内初めてのものであった。

合同新会社から釜山の第1回総会まで

大正10年(1921)

新会社第1回総会
 大正10年1月30日金沢商業会議所で新会社創立第1回の定時株主総会が開かれ、12月末(大正9年)決議案を附議、配当6分を可決承認した。なお本社を都合上神戸へ移すことも承認された。主な期末(大正9年7月〜12月)勘定は下記のとおり

   資本金       750万円      未払込資本金    562.5万円
   借入金       34万円      利益金       71,999円
   総収入      794,463円
   総支出      722,464円
   利益金       71,999円
   配当金(6分)   56,250円
   後期繰越金     2,049円

第2回定時株主総会
 大正10年7月30日、金沢商業会議所で大正10年6月決算案承認の定時総会を開催したが、世界的不況の影響を蒙る当期営業は不振、僅かの利益金を後期へ繰越し、配当は無配となった。

   総収入      801,387円
   雑収入       5,658円
   合計       807,045円
   総支出      801,831円
   差引利益金     5,214円
   後期繰越      7,263円

 このように合併後の会社は不況の飛ばっちりを受けながら、第1回総会にはどうやら配当も出来たけれども2期、3期となると無配となり、また社長の打った手はどれもこれもイスカのハシの喰い違いとなり不況下における悲運をかこちつつ折角の合同成果はこれを得るによしなく終った観があった。

大正11年(1922)

第3回定時株主総会
 当期(大正10年7〜12月)定時株主総会は大正11年1月29日午前10時金沢商業会議所で開催、取締役1名補欠の件は沢山精八郎(長崎市)監査役1名増員の件は松本梅三郎(同)の両氏当選、業績は引続き無配、借入金は679千円と増大している。
   利益        9,942円
   後期繰越      17,206円
   配当  無配

第4回定時総会(本社再び金沢へ・払込徴集紛糾)
 (大正11年1〜6月)7月31日金沢商業会議所に開かれ、議案神戸本社を再び金沢へ移転する件を承認、また取締役、監査役全員任満改選の結果全員再選した。決算では借入金が479千円と減少したが、当期利益金53,441円、6分復配とした。しかるにこの復配で株主野村喜一郎氏(註)が第2回払込の徴収説とからみ合せ痛烈な質問を行った。曰く
「復配をするような良い成績でもないのに、6分配を行なうことについては、これを第2回の払込を行なうための苦しい算段からと酷評するものがある果して然りとすれば、今度の配当は株主を釣ろうとする一つの手段であって、不誠意この上もない。仮に不誠意、誠意はともかくとして、経済界不振の折、第2回払込を行なうということそれ自体が可笑しい、社長はこれをどう解するか」
 とやや詰問的質問を浴せれば、松風社長も負けていず
「自分は何も好き好んで当社社長になったわけではない。また払込みをするにしても、自分も多くの株を持っているのであるから、株主が払込を苦痛とするならば、自分もまた同じく苦痛であるわけであり、何も好んで株主に苦しみを与えようとするものではない」
と答弁し、暗に払込みを否定しないのみでなく、社長も野村株主の持ち前である激烈な舌鋒に、いささか昂奮気味である。従って社長の言動も鋭くなり、多数株主の信頼によりて会社を背負うてやっている以上、会社の痛手を救わんがためには、時には鬼手仏心的の施術もしなければならぬ、という態度を示し、払込もやむを得ずとする気ぶりであったので、聞かぬ気の野村株主がこれで納得する筈はない。
「社長が大株主であることは、誰れもそれを知っている。株主でないものが社長になっている会社はない筈である。そんな問答よりも時期に非る払込を強要するような措置をとって貰いたくないということを考えて欲しい。若しこれを断行するならば果して多数小株主が屈服すると思うか」
と畳みかけて反論すると、他の一株主も今度は原稿を取り出して、同じく払込み反対論をおっぱじめるという仕末である。とに角払込みをするということはこの際小株主の方は好まないところであり、大株主間でも会社側の採らんとする払込方針に不満を持つ傾向も濃いので、これらの鋭い発言は、強く一般株主を揺り動かし、殆んど議場あげて共鳴する風であった。
 この不利な情勢をみてとって、機を見るに敏な社長は、俄かに河岸を変え、話題を転じて巧みに他を誘い、ともかくも一応のケリをつけて6分配を可決した。
 (註)野村喜一郎氏は、金沢近江町の魚市場小売側を代表する名物男で、明治40年3月金沢商業会議所改選以来の議員となり、恰かも硬質陶器取締役で近江町魚市場の魚卸代表である能沢長太郎氏と対立することもあった。氏の晩年は金沢商業会議所常議員に選ばれ支那へも渡り活躍するなど、金沢財界一方の雄。昭和7年10月に起った魚商組合対問屋連合の所謂近江町騒動小売側の立役者として知られる人

第4期業績
 さてこの第4期の決算案下期の通り
   利益        53,441円
   前期繰越      17,206円(配当年6分)
   後期繰越      8,097円
 なお借入金残は47万9千円である。

本店金沢に移転
 神戸にある本店大正11年7月30日金沢に移転。従って金沢支店を7月31日付廃止

40万円の社債募集
 大正11年8月28日京都出張所で重役会を開催、社債募集の件で協議の結果、9月21日金沢商業会議所で臨時総会を開催し、右の承認を受けること、社債発行総額は40万円とし、9月30日社債募集勧誘状を株主に発送、10月14日より募集開始、同月20日に申込を締切る。次いで11月10日社債払込期日として完了することとしその達成に全力を挙げることになった。

社債募集を決定するまで
ところで、かかる40万円の社債募集を行なうまでに松風社長が金繰りに関し苦労を重ねたエピソードがある。既述するように、会社は折角合同したが、その後引続く経済界の不振で業績は挙がらないその間社長折角の名案も何ら為すところ無く、不発に終るので株主中には松風は大風呂敷で失敗したと、冷ややかな眼で批評するのも出て来た。しかしこれは無理で戦後財界の反動期にあっては、事業家は得てして見込違いをする、豈独り松風のみならんやというわけで氏ばかりではないのである。ただ心ならずもそうした非難に甘んぜざるを得なくなったのは、御時世で已を得ないところであろう。それでも大正11年頃までは、会社側必死の努力でどうやら経営も小康を持して来たのであるが、その後に至り、輸出内需共に売行が細まるばかり、つれて値段の方も下がるが生産費の方は一向に下らないということで当然会社に響いてくる。松風社長就任10余年折角の奮闘努力も、労多くして功なし今や全く瀕死の状態となって来たのである。
 そこで、これが打開策として松風社長は株式の払込徴収による金策を講じたのである。そうすれば借金は返済せられ、金利だけでも助かるのだから、少しは無理な時期かも知れないが、強行突破でいこう。そしてその時期を大正13年としたところ、この意図が一部株主の間に漏れ、反対論が強く、これを大株主の前田家や早川家に訴え反対を迫る有様である。
 既述の第4期総会で株主から突っ込まれた払込説反対の空気も、そういうところから窺われるのであるが、当時満鉄社長である早川千吉郎は「払込を無理に行なうと、自分の立場はなくなるから断じて未払込みを徴収しないようにして欲しい。その代り自分も一つ尽力するから社債を募集したらどうか」という書面を支配人の小黒氏のところへ寄せて来た。これを小黒氏から社長に進言すると「今利息のつく金を借りても、金利に追われるだけで何んにもならぬ、利息のつかぬ金が欲しいのだから株主が何といっても徴収する」といって頑として自説をまげない。そしてその時の松風の比喩する言葉が面白い。
 「憎くして叩くにあらず竹の雪という俚言がある。なるほど借金すれば一時的には危救は免かれるとしても、行く行くは多額の金利でわが首をしめねばならない。だから已なく金利のつかない払込により、未払込金の徴収の方法をとろうとしたのだ、竹の雪を叩くのは憎いからでなく折れたり埋もれたりするのを憂えての竿の動きであり、払込は苦しくても、この方が将来において良いという松風熟慮の末のこうした処置である。どうも早川のいうことは取り合いたくない」
と頑として早川氏の進言に応じない。
 だが竿で叩かれる株主は苦痛だ。そこで株主は金沢で談合の結果、対策として会社内部を検査して少しでも不都合であれば、会社をいじめ、一面払込の徴収を阻止しようと計画したのである。
 この株主の不穏な形勢を見た小黒支配人は、極力社長を説き、早川氏と会って善後を相談下さいと面談することになった。早川氏は一旦いい出したら利かない松風の性格を知っているので、理屈抜きに拝む頼む、払込はしない方がいいという態度で望んだので、社長も遂に理屈がいえなくなり、その妥協点として早川案の社債募集が出て、その半分を早川が引受けるということで、社長も帰沢したが、やはり借金が嫌いだと見え「わが社はもう救う道はない」と小黒支配人に漏らしたものである。
 ところが間の悪いことは、何処までも続くと見えて、当の早川氏は社債募集に先だち死去したので所期の目的を達することなく、辛うじてその額を縮小し会社自身の手で完了させた。しかし結果はすでに社債募集そのものを本意としない上にもって来て募集額を減じ40万円(上項参照)に止まったので、金融圧迫を緩和出来ない。一方海外市場との取引は杜絶状態に陥ち入り、漸く送った品物には種々ケチがつけられ、苦情が絶えない。そんなことで会社は無配を継続してやっと持ち続ける程度であるので、社長は一旦あきらめた払込の徴収を決意した。ところが有志株主中には、これに対抗するため団結して会社を攻撃し、検査員を置いて、工場内部を調達するという事態になった。

大正12年(1923)

第5回定時総会
 (大正11年7月〜12月)大正12年1月29日金沢商業会議所で開催、決算案、役員改選等の件に関し原案通り可決した。当期も引続く不況のドン底に沈滞し利益金も4,496円に止まり、前期繰越と合せ13,000円を次期へ繰越し再び無配となった。借入金の方は136千円を減少し436千円となったが社債が369千円新たに加わった。期末未払込は562万5千円である。

役員改選
 なお岡本(実太郎)取締役辞任し、小黒取締役は専務、北村取締役は常務に夫々互選された。
  取締役  久徳鉄太郎 死去  4月24日死去
  監査役  本多政正      4月24日辞任
  取締役  能沢長太郎氏    6月16日辞任届 22日登記
  社債   40万円払込済登記 7月10日

第6回定時株主総会
 24千円の欠損(大正12月1月〜6月)引続き業績不振24,300円の損失となった。後期へ繰越損11,173円となった。借入金再び増加し66万4千円となる。

役員改選
 取締役任満に付改選の結果
 松風嘉定、小黒安雄、北村弥一郎、横山俊二郎重任、新に小寺敬考(前田家)相川久太郎、飯尾次郎三郎(本多家代表)横井伊佐美(弁護士)の4氏就任した。このうち飯尾氏は北国新聞社、倉庫精練、明治印刷社長を勤め、金沢財界の重鎮である。役員会互選で同氏は常務となり、小黒専務は留任。

金沢鉄道局設置問題
 8月6日金沢商業会議所主催の金鉄誘致懇談会に飯尾常務出席。

半額原資に踏切る
   −−不況深化と体質改善で−−

 第6期決算をみても分るように資産内容は悪化している。しかも業界の先行は不安である。その上最近起った釜山工場の火災、風害で大損害を蒙っている。これが対策としては公称750万円の資本金を半減し体質を改善するより他はない。会社側ではかように決意したので先ず主な株主に諒解を請わねばならぬと8月19日午後2時から金沢商業会議所で株主懇談会を開き、原資案につき説明した。
 出席株主は
   山田清太郎、奥田徳治、辻惣右衛門商店代表、出口精一、長惣右衛門
   役員側より 松風、小黒、飯尾、相川、横井各取締役
 協議の結果全部原案を株主総会に付議することに決定諒解なった。なお臨時総会は9月6日午前十時より金沢商業会議所で開くこととしたが、折柄9月1日突如勃発した関東大震災で東京方面よりの重役が来ない、また出席も少く株数及株主人員過半数に満たぬので、臨時総会を20日に開会することに定め閉会した。当日の出席役員は松風、小黒、飯尾、相川、横井氏である。

大正大震災勃発
(碗皿2万個発送)=当日の会社日誌より
 正午地震あり、可成り動揺せり、工場内は製品及び型少々破損に止まる。
 右地震は東京・横浜方面の大地震の余波にして東京市及横浜市は地震のため倒壊甚だしく火災起り、海嘯起こり、両市は全滅の悲境に陥れり。実に聖代の大惨事なり。
 9月7日 義捐金として社員職工より金258円70銭北国新聞社を経て申込めりまた食器2万ケ(時価1千円)内務省大地震救済事務局へ申込。

波瀾を極む減資臨時総会
 9月20日減資案主体の臨時総会が開催された。その内容を当時の新聞紙から掲げてみよう。

(前略)9月20日午前10時より金沢商業会議所で臨時総会を開催、松風社長議長となり前期欠損補填金を原案通り決定したが、当日の重要議案である減資案即ち750万円を375万円に減資する件に入ると待ち構えるように野村株主は減資は已むを得ずとするも既往重役の放漫主義の結果このようになったについては、役員は責任を明らかにすべしと糾弾し、辰村株主(当時金沢財界の重鎮で会社創立発起人の一人、後に金沢商議所会頭になる辰村米次郎氏)も経営方針につき質すところあった。これに対し社長ら重役から夫々答弁があったけれ共納得されず、議論続出収拾出来ないので一旦休憩し別室で協議の結果午後一時再開、まず辰村氏は今回の減資案は致し方なしと認むるも重役諸氏はこの際経営上慎重の注意を払われんことを要望し、野村株主また本案は承認するが、旧役員の問責はこれを保留すると述べ採決の結果原案を可決した。かくて9月21日より減資手続終了の日まで名義替換停止を公告した。

第7回定時株主総会
(野村喜一郎氏監査役に)(大正12年6月〜12月)の決算総会は13年1月30日午前10時から金沢商業会議所で開かれ、先に12年9月20日の臨時総会で決議した減資案を承認、監査役1名改選の結果、過般の総会などで大いに議論した野村喜一郎氏当選就任した。なお今回の減資案で公称資本は375万円、未払込資本金は281万2,500嚥で、社債現在額は38万7千円となる。営業は引続き不振にて59千円の損失を計上した。

   [減資後最初の貸借対照表]        13年1月現在
   資産の部(円)            負債の部(円)
  未払込株金       2,812,500   株金       3,750,000
  地所及建物       946,702   借入金      670,607
  機械器具及什器     637,177   支払手形     355,911
  受取手形        17,579   未払金      50,831
  未収入金        71,830   仮受金      58,348
  貯蔵品         97,002   未払配当金    4,070
  製品半製品       214,694   社債金      387,000
  製造用具及仕掛材料   73,428   合計       5,278,569
  仮支出その他      83,206
  戸畑勘定        257,660
  当期損失金       59,058
  現金          1,717
  合計          5,278,569

大正13年(1924)

第8回定時株主総会
 (損失5万1千円)(大正13年1月〜6月)減資して内部整理した第2回目の決算である当期だが、依然として5万1千円の損失となり未だ改善の域に到らない。後期繰越損金は11万円に達す。

攝政宮殿下行啓で献上品
 摂政宮殿下には11月上旬大演習のため北陸地方へ行啓されるに付10月21日会社では献上品として9インチ12角白地肉皿1打桐箱入及び台覧品として製品4点、工場作業順序模型を提出の願書を市へ届出た。
 11月3日金沢市を経て、5日午前9時22分に摂政宮殿下の代理として山本侍従を派遣の旨伝達あり、当日定刻に山本侍従来社、松風社長御案内申上げた。松風社長は小黒専務と共に翌日大本営に伺候、御礼言上の挨拶をなした。

閑院宮殿下御視察
 7日閑院宮載仁親王殿下午前8時30分、ついで9時40分久邇宮殿下それぞれ御来臨せられた。小黒専務両殿下の御旅館に伺候中皿2打宛献上申上げた。

輸出好調のとたん第2次大戦でふい     日本硬質陶器顧問 坂井美静氏談

 私が日本硬質陶器株式会社を知ったのは京都松風工業株式会社社長松風嘉定氏が日硬社長を引受けられた時であった。これはたしか明治45年4・5月の頃だったと思います。その後大正2年11月その頃の中華民国上海市場調査を兼ねて見本を持って販売に出かけ神戸から欧州通いの郵船三島丸にのりました途中下ノ関に停泊中松風社長が乗船され、その時社長は日硬会社製商品の販売と市場調査の目的で行かれることを聞き知りました。当時は日硬会社の製品は皿類の白無地物、青筋物が主でありました。少々は銅判ケシ画のものもあったようで、販売先は全部国内向ばかりであったと思っています。そして製品もあまり良質ではなく製品中より時々クラックが出たりする事があると聞いておりました爾来品質も研究改良され、技術もずっと錬磨されましてのでその声価もとみに高まり国内製硬質陶器界では、一流中の一流品と好評をうけるようになりました。大正3年頃と思いますが社長は従来の内需を主としていては市場も狭く、従って数量もさほど多きを望むことは出来ない、これはどうしても海外市場を開拓し輸出によって大きく進展をはからねばならぬ、それが会社の発展する道でもあり、またお国に尽す事にもなると考えられたようでした。海外市場開拓には従来の白無地青筋等のものでは到底発展の目的を達成する事は不可能であるとして、矢張り絵付加工をほどこし綺麗な立派な商品を製作すべきであるとされました。丁度その頃私の会社で陶磁器用としては初めての石版印刷となしそれを生地に転写する所謂転写上絵付分が完成されておりましたので私は命ぜられて日硬会社に出張し、その指導に当りましたことがありました。その後種々の点で充分でありませんので日硬会社より数人の人々をわが社へ派遣され1ヶ月余実地練習され遂に石版転写上絵付は完成された事を記憶しています。大正14年松風嘉定社長は第7回国際労働会議に資本家代表として選ばれ欧州ジュネーブに主張されることとなり辞任されました。昭和3年頃日硬会社へ御願して南米ブラジル向け食器の見本を製作して頂いて送付しましたところ好評を博しまして、昭和16年迄引続き多額の輸出をされました。このブラジル向を製作されるには日硬会社におかれては相当苦心研究された事と思いました。それはその当時ブラジル国の輸入関税が重量税であったので極力その製品の目方を軽くせねば着価が大変高くつくため硬質陶器としては一番困難な薄手ものを製作せねばならなかったからであります。また昭和5年には南米アルゼンチン向けも製作して引続き多量の輸出をされました。また同時頃北京向けとしてもぼつぼつ輸出されその増大をはかっておられましたが、第二次世界大戦のため遂に昭和6年には輸出不可能となり中絶しました。
 以上終戦前の私の記憶を書きました次第、実は私も戦災にあいましたので何にも昔の書類が残っておりませんのでほんの記憶を辿り認めまいした次第です。御了承下       以上

松風社長の片腕 小黒安雄氏 引き入れのこと

 松風社長の懐ろ刀として、社長就任とともに、強引に会社支配人(後に専務)として引っ張り出された小黒安雄氏は永く日本硬質陶器史上、浮彫される重要な人物である。氏は松風社長退任後、止まりて第3代香椎社長の許にあったが間もなく会社を去り、七尾セメント(後のイワキセメント、現在は住友セメント)創設に与かり、常務取締役として経営の衝に当っていた。石川県セメント界の功績者でもある。その後会社を辞し東京で大いに活躍、戦前鐘淵紡績の津田信吾社長らと華北商事を設立、その社長となり、大陸との物資集散で一役を買っていた。晩年さらに蒙彊開発会社を東京に設立その社長に推されんとした直前病を得て再び起たず昭和17年9月東大病院で死去した。生地は北海道松前藩、東京水産講習所の出身、北海道では瀬戸物その他の商売をやったり或いは銀行家として、三井銀行京都支店長など勤めた経歴もある。欧州へも屡々旅行し、見聞も広い、金沢在任中は宮市(今の大和)井村徳三郎氏らと再度渡欧するなど、当時としてはなかなかの文化人で、号を如水といい、達筆家として知られる。
 その長男小黒氏は現在、片山津のホテル・ニューカタヤマズの支配人であるが、父について次のような感想を述べていられる。
 「いつも私は父から円満常識を持つように努力しなければいけないと教えられていた、そして何かで倒れた場合は、早く起き上ることを考えよ、地べたに長く伏せたらお仕まいだ。よく勉強し、よく考えて世の中を渡りなさいと教えられたのが今でもあざやかに残っている」
 そういう小黒安雄氏であるが、その小黒氏が語る松風社長から硬陶に引き入れられた経緯が実に面白い。以下は松風伝記にある小黒氏の想い出回想談を主体として記述した氏と社長の深い関係である。
 それは氏が松風伝に寄稿した「松風社長を想う」の中の回想談で七尾セメ常務時代のものであるが、松風氏の性格の半面も伝えて非常に参考になり、興味深いものがある。そこでこの中から若干関係する面を紹介するのであるが却々の文章家でもあり、原文のまま出させて貰う方が、却て当時のムードがあるようだ。

1.社長と金沢へ同行
 松風氏を私が知ったのは岡実氏(東京日日新聞社副社長)が農商務省にいられた頃で同氏の紹介によって、松風氏と初めて知り合った。爾来消息を絶やしていたが、大正元年私が外国から帰朝して東京にいた時、錦光山宗兵衛氏から電報が来て「松風氏が金沢の日本硬質陶器の社長になったからお前は松風社長を輔けてくれ、明朝松風氏と新橋駅にて面会を乞う」ということであった。私としてはあまり突然で予期しない事であったから返電が遅れていたところ、重ねて同氏から電報が来たので、私は翌日松風氏を新橋で迎え駅内の東洋軒で会談したが辞退して受けなかった。すると松風氏は「まァ一緒に行ってどんな風になっているか見ようじゃないか」と誘われたから「それ位のおつきあいならお伴しよう」と約束して金沢へ同行したのが、大正元年10月29日だった。
 日本硬質陶器へ出て数日手伝っていると、倉庫の鍵から社長の判までも私へ預けて「一寸京都へ帰ってくる」といって松風社長は帰洛してしまった。後はまだ入社もしないが、私が社長の代理で留守役を申し付かったことになったのである。

2.社長不在中のストライキ
 社長との打合せもすんでいたから、社長の不在中に若干の改革を行ったが、その反動であろう、職工がストライキを起して騒ぎ出した。しかしそれは憲兵と警察にも世話になって間もなく治まってしまった。
 そこへ社長が帰って来て「不在中に何か問題があったであろう」と訊ねたからストライキの起ったてん末を報告した。社長はそれを聞き取ってから「実は今度来たら命がないという脅迫状を貰っているよ、だから何にか問題があったという事を知ったよ」といって別段気にかけているようでもなかった。

3.遂に絶対服従で社長に仕えた
 こんな関係でずるずるべったりで松風社長の下に働らくことになってしまった。しかるにその年の12月30日社長が京都へ帰る時北間楼で技師長、経理課長などと一緒に晩餐をとることになった、その時社長が酒の上のことではあるが私に対し忠告がましいことを言われた。私が何か酒でも飲んで乱暴でもするかのように、他から聞き込んだものらしく受け取られた。私は非常に不愉快に感じて東京へ帰るといった。しかし明日は大晦日で勘定日だから正月社長が帰任されるまでは止まっていようといった。社長は31日に帰洛し、大正2年の1月10日に突然「錦光山宗兵衛、藤江永孝の二氏と同行して山代へ来たから出て来い」といってよこした。
 そこで山代へ行って面会したところ、社長から懇々と話があった。仍て私も大いに気が触けて「よろしい、こちらにいる時は、社長の意思の通りやりましょう。絶対に服従して仕事をしよう」と折れて出た。そこで錦光山、藤江の両氏もえらく喜んでくれられた。爾来一切絶対服従主義を守って仕事をしたが、さて両3年してから自分は自分としての新しく進むべき途をみつけようとしていたがそれもならず、ツイに大正14年社長が辞任して後継者に仕事を引き渡し得るまで勤続した。  社長は就任以来会社内部の整理をなし、製品は時勢に順応して海外へ向ける方針を立てて、欧州戦乱勃発後の財界不安定の際深き信念をもって進取策を採ったのであるが、それには石川県の内務部長であった夏秋十郎氏も大いに勇気をつけられた。その方針が時勢に適して会社の業績は年をおうて上がったのであった。

小黒安泰寺和尚 と呼ばれた当時の話

 ところで、こういう回想をする小黒氏を、可成り機微に触れ知悉する当時氏に師事した津田義雄氏の談を掲げよう。津田氏は石原社長時代総務部長を勤めているが、戦時中は鶴来署長など警察関係にあり、硬陶総務部長をやめてからは松任消防署長に任命されたりしたこともある。

ボーナスの継ぎ足し
 大正5年、歳末のことである、近年稀にみる大雪となり、交通通信も麻痺して、京都の社長邸との連絡もと絶え、已むなく小黒支配人の独断で、皆なにボーナスを支給し、年を越したのであるが、雪もおさまり、列車も開通し、社長も帰社されるに及んで善后処置を報告すると、それは少な過ぎる、気の毒だとボーナスの継ぎ足しをやった、従業員も思わぬプレスアルファで大喜び、流石は親父だということで大いに継ぎ足しの効果を挙げた。小黒君それで良かったとホホカムリしないでプラスしてやったところ松風社長のいいところもあるというもの。

酒を断ち業務に精進
 そんなボーナス継ぎ足し話しもあるが、その小黒氏は非常に意志の強い人と見えて、こんなこともある。もともとは大酒家でまた喫煙家でもあるところの氏は、大正14〜5年の頃と思うが、酒も煙草もふっつりとやめてしまった。その頃会社は大戦反動後の不況寺であり、会社の経営も非常に苦しい時である、この苦難を乗り切るためには、まず自分よりと、心機一転というか、このように酒や莨を口にしない、その上頭までザンギリにしてしまったから、誰となく氏に対して”小黒山安泰寺和尚”というニックネームが奉られた、これには流石の氏も苦笑したというが非常な精励ぶりで、冬期でも午前7時起床、社へは定時15分前に顔を出すので、社員も自から早出勤せざるを得ないという有様である。もっとも帰宅の際は社員を思いやって、一足お先にということを続けていた。
 また非常にマメな人で井村徳三郎氏と一緒に海外旅行を企てた際、旅先きから知人へ何本となく通信を寄せて来た、それも道中持参の矢立て巻紙を使用し一気に書き下すあたり、流石如水と号する程の達筆家である。
 金沢へ来て後身体も落ちついて来たのでここで永住の気持で犀川畔に新居を建てた、この新屋は後に望月という金沢でも知られる料亭に変ったが、大正大震災の不況で、会社も経営難に陥入り、結果は松風社長辞任ということになって、氏も暫らくして社を辞し家も手離した。
 このように社には、氏は全能力を挙げ、経営の衝に当ったのであるが、氏を輔佐する人物に欠けていたので、結び目がつかなくなり、折角のアイディアも充分効果を現わすに至らなかったのは、遺憾であろう。
 前社長石原氏の話であるが、一時盛んな時は、工場に7〜800名の工員が傭われていた。しかし肝腎な労務管理に欠けているので、勤務中勝手に職場を抜出してサボッたりするという話もあったが、一時は衛生陶器までやる手筈で、これなど成功したら、今の東洋陶器などにも比肩し得る大会社になっていたであろうという石原氏の批評である。
 しかしとに角金沢では当時異彩の人物である、先きほどからよく話に出る井村徳三郎氏など子息の徳二氏の若い頃であるが、小黒氏について大いに勉強せよというほど、徳三郎氏は余程の小黒宗になっていたほどだ。

工場内で給食パン
 それから工場内にパン焼窯をつくって、従業員の昼食に供したという話もある。大正8、9年の頃で当時米価が暴騰し、十間町にある金沢米穀取引所であるが、日毎高値を記録する、つれて米屋の小売値段も高値につけかえられていくのであるから、取引所はいわば市民怨嗟の的である、だから何処かで火災などあって、ジャンと鳴ればそら十間町だ。焼き払って仕舞え、なんて物騒な声も聞かれる程であるから、食糧問題ともなれば、真剣な問題である。そこへいくと小黒支配人は、再度欧州旅行の経験もあるので、パン食も板についている。こういう際パン食でも安く支給したら喜ばれようと、初めのうちは、広坂通りの桂月堂と特約して、一食6銭で給食させ、それに3銭の副食物を添えて、従業員に支給したが、これでは満足出来ないので、工場内の食堂にパン焼きがまを築き、栄町の笹川という職人を呼び、桂月堂より1銭安い値で分配した、それに前田家とも連絡し、北海道の前田農場から樽入のバターを取り寄せて、小容器も作って小売した。ジャムの方も桶入のまま取り寄せ実費で分配した。それから副食物の調理場も作り宮岸某という調理師に担当させた。いずれにしても、物価高の折りであり、且つは稀らしい当時の企画であるから、なかなかの好評だったという一方、社員の方も別に事務所の隣りに、食堂を設け、これも共同炊事をやり、野口、水越という両女子事務員に手伝わせたが、この結果、全員パン食となり従業員の方は工場の向い道路を隔てたところに、食堂を設け脱衣兼食卓が設けられた。
 以上小黒専務の給食パン施設のあらましである。

野口他幾子さんのこと
前項”工場内の給食パン”の記事中、野口という婦人事務員の名が出たが、その野口他幾子さんは三谷社長夫人の叔母さんにあたり、当時硬質陶器に在社中はなかなかのハイカラさんで、木綿縞の袴をはいているのが、非常に目についたと言う。狭い応接室で来客と商談中に事務室の電話が来客によく聞こえ商売上邪魔になることを防ぐため、彼女の創案でご当人は金沢電話局へ行って特殊の暗号を覚え、商談の中で値段のことになるとその暗号を使って会社の機密を守ったことを松風社長が知って本人に表彰状を与え、退社するときは当時最高の退職金が贈られたという話もある。去る10月居住地の長野県から久しぶりに三谷社長宅にきて、夫人に話されたというのが以上の話である。

   −−晩年の松風氏−−国際労働会議に使して

 松風氏が第7回国際労働会議に資本家側代表として推薦された経緯を説明したい。第7回国際労働会議が、大正14年10月ジュネーブで開催されるに当り、日本の資本家代表選定方を京都側が政府当局から一任されたので京都商業会議所会頭浜岡光哲氏は慎重考慮の結果、松風氏を最適任者と認めて推薦した。浜岡会頭の意中では将来大をなすべき松風氏が、こうした機会を利用してその見聞を広くして貰うことはやがて京都の利益にもなることとも思い、極力決意をうながした。しかし松風氏としてはいろいろと内面的の事情や関係事業などの関係から始めは受諾を困難ならしめたようであったが、熱心な慫慂をうけ、”苟くも国家の事に携わる、私情何れぞ”と遂に快諾したのであるが、とに角わが国の資本家代表として選ばれただけあり才気煥発、氏の豊富な識見手腕が買われたのであろう。

◇労働代表鈴木文治氏との乗船
 その松風氏が出発するに当り、第1に考えたのは、わが国を代表すべき政府、資本家、労働各代表が各独自の立場を固執して出掛るのは、国のため甚だ不利益であるとして、まず会議に列席以前において、三者互いに隔意なき協議をなすの要ありと、政府代表守屋栄夫、労働代表鈴木文治氏らを説き共に同船し協調の方策を講ずることになったのであるが、氏はそのため抹茶道具を船中に持参し、茶席を設け両代表を招いて融和に苦心した結果、従来犬猿ただならざりし労資両代表の間に円満協調の話し合が進み当時の話題を賑わしたというエピソードがある。

  −−松風氏起たず−−

 松風氏が不幸再起することの出来なかったのは昭和2年9月17日発病以後である。それでも気丈の氏は気分が良ければ外へ出て活動を続けていたが、遂に病革り、病名も肺壊疽、腹膜炎、肋膜炎と三重苦のように重なり翌3年1月19日午前6時40分眠るが如く59才の一生を閉じた。生前の功労を聞し召され従6位に叙せられたが、病床百余日その間安静を命ぜられているにかかわらず、最後の2、3週間を除いては昼間は横臥するようなことは見られなかった。氏の病重り面会謝絶になると様子を伝聞して心配したある親しき友人が送った慰問文の中に
  わが宿の松風きくごとに君が窯かけ茶を煮るを待つ
とあり、速かに病癒えられんことを祈る暖い心情に深く感謝したという。葬儀は京都四条大望院にて執行されたが遺徳を偲ぶ朝野の名士ら会葬者1千余名を数え近来稀に見る盛儀であったという。

  松風と美術、趣味

 「松風は金沢において、二つの緒餘を試みた。一つは古美術品に対する趣味の発揮である、今一つは銭五に関する記録や考証が甚だしく杜撰にして、後世にあやまり伝えらるるは、偉人の霊を永久に辱かしむるものとして真伝編述の業を起した。」
 これは松風伝編纂の言葉の中にある一節であるが、氏が金沢の美術方面への交渉について松風伝記中にある金沢の骨董商かじ乙こと内山豊男氏の「聴松庵大人の事」なる中から若干再掲させて頂だき、氏と美術関係における一端を偲ぼう。

    聴松庵大人のおん事 金沢かじ乙 内山豊男

故人と金沢
 松風さんが、金沢へ度々来られるようになったのは大正2年と記憶しています。故人と金沢とは事業関係も浅からぬものがありましたでしょうが、同時に美術とか趣味とかの方面でも段々と趣味をもつようになられたのは、野村という旅館に止宿していられたのが因縁となったのです。野村という旅館は家内が旅館を営み、主人は鑑札を受けた骨董商でしたから、お話のお相手に美術骨董のことが出てツイ幾らかお買いになったのです。

初めて故人を知る
 亡父乙次郎がご昵懇に願いましたのは大正2年の5、6月かと記憶します。故人が金沢の硬質陶器をお引受けになると間もなく会社を改築せられました。その改築を請負したのは長惣右衛門でした。この仁は私方の客ではあり、故人は懇意にしていられましたので父の乙次郎や私を紹介してくれられました。それから故人にお近付になりました。(この項下段に続く)

   中屋家(金沢)の売立
       −−茶道具類の買い初め−−

 その頃金沢の最旧家である中屋彦十郎氏(薬種商)の相当大きな売立がありました。その時故人は常信の二幅対の掛物を筆頭として十点ばかりを買いいれられました。これがあの方の、そもそもの買い初めでありました。水指とか、茶入とかいう茶道具は、その時私がお勧めしたのでお買いになったのです。私がこれらの品々をお宅へ持参した時、奥様は意外の感をしていられました。恰度清水の御宅が新築せられた翌年でした。まァ床の掛物もほしいという時だからお買入になる気分になられたのでしょう。

   雁半家の有名な売立
      −−林、かじ乙の名義で買い入れ−−

 越えて大正4年11月に有名な雁半家の売立で当時雁半相場といわれた位、全国の好事家に響き渡った名品揃いの入札でありました。その時にも故人は十点ばかり買い取られました。林さんの本家がお近付になったのは雁半の入札からで、林さんと私方との名前でお買入れになりました。

◇義理堅い方だった
 故人がお堅くいられたことは、雁半の入札で10数点お取りとなってから松風家へ伺って、歩は1銭も頂戴せぬ、無手数料でいいからとお買物の世話をすると申出た御仁もあったと承わります。然し故人は余人は相手とせられず購入品は必らず林さんと私方との両名の手を経られこれだけは非常に堅い方であった、そこに故人のえらい点がありました。
 世間には一歩でも安ければ・・・・・・という仁もありますが故人はそうではなかった。

   お茶の稽古のはじまり
      −−正式茶事の始まりは金沢−−

 それから京都や金沢の入札には、絶えずお買取りになっていた。そして大正6、7年という好況時代に向いボツボツお宅でもお茶の稽古事が始まっていた位の程度でした。お茶事と申しますと、大正8年に私の方の恰度親共の還暦でその祝意の茶を致しました時に、京都からお越しを願ってお茶を献じたことがありますが、その時が故人の正式の茶事に招かれられた最初でないでしょうか?正式茶事へ出陣せられて、功名のあった故人の初陣が金沢であったことは、故人と金沢との因縁を益々深からしむるものです。

   急速なる進歩
      −−東山茶会を機縁に故人の名高まる−−

 それから茶事というものは、理想的のものだというのえ、急に斯道に精進せられました。
 その頃まだ好事家の方へはおなじみがなく、お顔も売れていなかったが、友人の方々を招いて茶事を催され、それに導かれて斯の道を初めて知られ、とうとう茶事を愛好せらるるようになられた方が少なくなかった。
 そして大正10年に洛陶会を起され、東山に大茶会を催されてから、それが動機となって、全国的に一流の好事家とお近付になられました。

   客は聴松庵御一人
      −−主人側は金沢の素封家9名−−

 洛陶会が主催者となって、大茶会を催された時、金沢の一流好事家仲間からは梅風会という臨時の名で一席を設けられました。そして洛陶会の会長だった故人の御親切にも預ったのだから、その答礼の意味で、その翌年の正月下旬故人が硬質陶器会社の重役会に見えられた時、所謂金沢の素封家連中9名、横山両家と石黒、山川、中宮、素谷、田守、岡、越沢の7家が、主人側となって故人を招かれました。金沢は旧藩公はじめ8家老以下裏流であったから、自然町家でも裏流が多く、今日でも依然そうであるが、種々の都合で当日は表千家の吉倉休祥庵の道場を席として、お客は故人ただ御一人で私が詰役としてお相伴をしました。名家が9名も一団となって、亭主役を勤め、そしてお客がたった一人というような、茶事が催されたのは、一寸他にはないことでありましょう。その時は名品揃いであり、故人の正客びりは一層冴えたものでした。
 かように金沢では、名代の御茶事と称せられる茶事に客となられたのは、故人も非常に満足であってそのお返えしをという考えももっていられました。「あの連中は名品をもっていられるから招くとなれば、一通りのものではいけない何にか名品が手にはいったらお招きしよう」と申していられましたが、ついその機会が来なくて御逝去になりました。

   金沢人は謡か茶で呑気だ
      −−金沢に蔵せられた数百万円の美術品を売立て生産的に使え−−

 故人が金沢へ来られて間もない頃、どこかで講演せられました。その時故人は金沢には金額に見積って、数百万円の美術品が旧家に襲蔵されてあるそうだ失礼だが美術品を庫の中へ大切に入れて置くことは、有意義とは申されぬ。そういうものは、市場へ出して金に代え、それで生産事業を興されたなら、金沢のためになるばかりでなく、国家社会のためにまことに有意義である。というような意見を述べられた、つまり「金沢には沢山な資源があるから、それを一旦金にお代えなさい、そして生産的にお使いなさい。それを働かして、それから生じて来る利益の中から、また買ったらよいではないか、余裕が出来たらまた買戻しも出来るから少しも心配はない」ということを、故人は唱えていられましたようです。それがほんの両3年後に好事家となって色々と買われるという沙汰が知れているので、故人に対する好事家の感じは、一層深いものがあったと思われます。(以上内山豊男氏談より)

   松風嘉定の遺著”銭屋五兵衛真伝”

 松風社長はその伝記”松風嘉定伝”など熟読すればするほど、偉大な人物であることがわかるが、あのような日常多忙な身辺にもかかわらず「銭屋五兵衛真伝」なる遺稿があり、それを松風嘉定伝の編纂委員会はこの伝記と併せ、筺底に蔵してあったものを聊かの加除添削を用いずして公刊している。今更ながら氏の熱情と努力家たることに頭が下る思いがする。銭屋五兵衛といえば加賀における誇り高き男として余りにも人口に膾炙(かいしゃ)しているが、たまたま金沢に縁あり、当時公開されている銭五伝の謬り伝えられているのを慨嘆し、あえて一書を作り、真伝を伝えるという気概は大したものである。本書は大正6年9月脱稿したが、これが内外印刷会社で松風伝とともに併せ編纂委員会で公刊したのは昭和5年1月のことである。巻頭に編纂委員会による”遺稿の発表について”という一文があるがよく故人の金沢における功績を録してある、これをそのままに転載させて貰う。

遺稿の発表について
 故人は金沢において二つの二つの緒餘を試みた。一つは古美術品に対する趣味の発揮である、今一つは銭五に関する記録や考証が甚だしく杜撰にして、後世にあやまり伝えらるるは、偉人の霊を永久に辱かしむるものとして真伝編述の業を起したことである。その志の存する次第は、著者の自序ならびに例言において明らかにされているから、ここに蛇足を添える必要はない。
 斯くて本書は大正6年9月に編述を終り、故人は機を見て公刊し、識者の教を請わんとの志を有していたのであるが、日夕多忙であったがために、竟にその機会を失い空しく筺底に蔵していたのであった。(中略)今回予等は故人の伝記を編纂するに当り、遺稿をこのまま故人の筺底に蔵し置くに忍びず、その稿本に対し聊かの加除添削を用いずして、伝記と併せて公刊するに決した。故人にして若し世に在らんには、未定稿なりとしてなお幾多の加除添削を必要としたであろうが、今はそれも叶わぬままに世に出すのはあるいは故人の志に反するかもしれぬ。
   昭和5年1月
                                 編纂委員会

[写真説明] 大正6年大雪記念、つば甚前にて。左端松風社長、中央は小黒安雄氏、右は骨董商内山豊男氏。=写真には、大正6年12月の降雪、30日余を経て、尚丈余あり、と付記されてある。

[第3編]了


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