日本硬質陶器のあゆみ
編集者 重利俊一
発行所 日本硬質陶器株式会社
発行年月日 昭和40年10月20日
印刷所 株式会社吉田次作商店
日本硬質陶器58年の歩み
[第1編] わが国硬質陶器の濫觴期
本稿は金沢で明治36年の創成から日本硬質陶器の発足までを記述する。
[はじめに]
硬質陶器が、世界に初めて登場したのは、関係辞書などによれば、西紀1600年ごろと伝う、初め英国で作られたのだが、その形状の正確なること、値の安いということで、広く世界各地に作られるに至り、一般に硬質陶器と称せられたのである(日本硬質陶器株式会社の英語での通り名はJapan Ironstone Chinaware Mfg. Co. Ltdであるが、このironstone chinawareは会社創設当時より使われており、明治43年の英文広告などにも商標にThe Ironstone Chinaと記されてある。逆に申せば、鉄石を硬質陶器と訳するなど、巧みに訳したものだといわれる。=[註]参照)。かくて欧州では家庭食器の日常品として普及されるようになり、陶磁器以外では陶器の中の硬質陶器として不動の地位を築くに至ったのである。
現在世界各国に生産される硬質陶器の生産数量は把握し難いが、通産省の昭和39年度輸出目標は窯業関係で1億2千万ドル、その半数を食器が占める中に於いて、硬質陶器は全輸出食器の6パーセントとなっている。今日アメリカなどでは、自動皿洗い器が使用されるに至ったが、磁器製品をこれで使うと、折角の美しい模様も剥げ易く、ために性質上剥げない硬質陶器製品が、大いに歓迎されるに至り、今後の硬質陶器における発展性を約束する。もちろん、今いう6パーセントではまだまだ磁器が圧倒的であることが分かるが、それだけに硬質陶器はこれからが大いに期待される。
ところで、わが国へ硬質陶器が渡来したのは、明治初期のことで、外国の多数文物とともに輸入され、オランダ焼とも通称せられたこともあった。
だが、焼き慣れている磁器製品と違って、原料製法が異なるところからこれを国産化すると一口にいっても、非常な苦心を伴う。そういう苦難の中で金沢では、明治36年研究が実り、サンプルが出来上がったのであるが、それが、全国硬質陶器界の嚆矢となって、草分けの地たる栄誉を担うのは、地方関係者としては心強いであろう、もっとも金沢ではない、名古屋だという説もある。
が、それはそれとして、金沢では硬質陶器の大量生産化のための企業体合名会社林屋組が出来たのは、明治38年、さらにこの組織を一歩近代化に進めて、日本硬質陶器株式会社が創立せられたのは、明治41年である。それから数えれば、わが日本硬質陶器は星霜ここに5拾有8年、そのサンプルが出来た時から数えあげれば60年も経とうというもの、もちろん伝統300年の歴史を誇る石川県の特産九谷焼産業からすればまことに若輩者である、ただ硬質陶器という名の洋風食器ということになると硬質陶器の歴史必ずしも短年月ともいわれないのである。
従って金沢でこれを完成し、独自の企業へ持って行くまでの、幾多先輩関係者の辛苦というものもなみ大抵のものでない。会社が現在の如き安定せる企業として隆々たるものがあるのも、実はそうした先人の努力の下積みがあればこそと改めて考えさせられるものがある。
現在アメリカ向けを中心とする輸出の旺盛にして確固たる地位にあるのはいわずもがな(注=最近期の売り上げ比率をみると輸出向は全売り上げの40数パーセント)国内では東京の百貨店など、よく製品のコーナーが特設せられその人気たるや何処まで続くのか、当事者もいぶかるほどの好評を博している、それも昨日きょうのことでなく相当長期に亘っているのであるから、如何に底力があるか、とに角あの独自のデザイン、女性の柔肌にも似る光沢、それらが何かエキゾチックであり、また魅力あり、コーナーの前に引きつけるということにもなるが、条件はそればかりでない、百貨店の宣伝ぶりも、なかなかの意欲的で、時々半頁大(アメリカでは一頁大のものも出ている)のスペースをさいて製品を紹介するところ、過去50余年の会社盛衰史を顧みて感慨深いものがある。わけて戦後において一時底知れぬ不況と争議の渦中にあって悶え苦しんだあの頃の苦境時を顧みれば、関係者の思い出もまた一入深いものがあろう。
今や由緒深き長町河岸工場は、両3年前建設されて松任工場にバトンを渡し、市民に馴染み深い建物や、煙突は跡形もなく取り払われて、そこには去る3月(昭和39年)竣工した関係の株式会社金沢ボーリングセンターが全国でも最高の施設といわれる壮麗優美なレジャーセンターとして営業的にもまずまずの成功を収めているということ、また空地となっている個所には、会社直営の駐車場が出来上がり、更に近き将来体育館などの施設が出来るとか、変われば変わるものである。しかのみならず取り払われた旧建物の主要部分は傍系会社の在鶴来町白山タイルKKや日硬陶器販売会社の松任倉庫に改装され、再度生産、販売におけるお役を果たしているとか、往年あの幾本かの直立する高い煙突は、金沢を俯瞰する格好の目印でもあったが、そこから吐き出される黒煙は市民の口の端に上る"長町の陶器会社の煙突は大きく長く六角で吐き出す煙は真黒っけのけ"となり洗濯(すすぎ)ものこそ迷惑をかけながらも何か市民の生活に溶け込んだあの唄い文句も星霜ここに50年を越えゆれば市街地における工場の不適格性、さては建物自体の老朽化、工場それ自体の非合理性、非生産性に伴う状態はいやでもこの工場に終止符を打ち、新工場を他に求めねばならない立場になった。
今や、念願する新工場は松任に建設せられてすでに4年余、充分に整備近代化されたこの工場の月産100万ピースも間もないとすれば、かつての生産能率の最高数量例えば10年前の昭和30年ごろの最高月間27万個と比較すると、その間画期的に伸びたものである。
けれど会社当事者は、決してこれを以って事足れりとしない、もともと硬質陶器の生産は、人手が要る商売である。いうなれば、一人当たりの装備量では他企業に劣るものあるはこれを認めざるを得ない、従って今後の動向であるベ・アの出来る会社、そして安定配当の出来得る企業として、将来一層その力を伸ばしていかねばならぬのである。また硬質陶器と併せ会社当事者は新規開拓製品を、次々と登場せしめて、会社収益に弾力性と厚味を加えるよう、努めているのも注目すべきことだ。かかる新規開拓製品の重要な一環として、合成樹脂製加工としてのポリホームバス(合成樹脂浴槽)を主軸に樹脂事業の本格的生産がはかられ、既に充分に業績に寄与している。
こうして会社当事者は、企業の本命を硬質陶器と合成樹脂製品の二本立てとし、時代の大きな歯車の回転にあわせつつ、一歩一歩と、会社の理想、イメージを現実のものとするため、ひたぶるな努力を払っている。以下明治35年ごろの硬質陶器創成当時より昭和にいたる日本硬質陶器株式会社に於ける58年の歩みを記述しよう。
[註1]このほど三谷社長が、渡欧し同業各社を訪れた際、日硬を呼び名するのに米国では社長の姓をそのままMITANI FACTORYという人があり、また欧州ではニホンコウシツトウキの日本呼び名をそのままN.K.T COと呼ばれた。三谷社長は帰社してその商標を従来のダブルフェニックスの他にN.K.Tを商標とするため目下デザイン等の研究を指示している。
硬質陶器開祖の金沢三人男
明治36年〜41年(1902〜8)
吉村、友田、林屋の功績
明治初年、舶来という名の、時にはオランダ焼きとも通称される硬質陶器の製品が、各種文物とともに国内に入り込んだのであるが、異国情緒ただよう、しかも使って実用的なこの食器が、日本人にとり、何にしても珍しいものであることには間違いない。この硬陶が金沢で全国に先駆けて試作され、国産品から輸入防止、さては外貨稼ぎと輸出に花を咲かせつつ50余年の歴史を一貫して、やっとここまで来たのであるから、これはまさに石川県産業史上特筆すべきことなのである。
そんな硬質陶器が金沢で全国のNo.1としてつくられたというのも奇しき因縁だが、始めた時期は明治36年ごろという、しかしこれは単なる偶然事とは看做されない。金沢で生まれるべくして生まれたのだと考えている。2,3そう考えあわされるような理由を附記してみよう。
1.石川県は古来九谷焼産地として、伝統的な陶業地帯としての性格を有している。そういうところに、大量生産性の欧州製の肉皿や、コーヒー碗が、流れて来たのであるから、これが関係者の目につかぬ筈はない。意欲的な九谷関係者にとっては、何かこれから学び取ろうという刺激のあったことも無理からぬと思われる。
2.加えて、石川県は生糸、羽二重の産地として、横浜や神戸港と貿易上のつながりも深い。それが輸入品の硬質陶器にも関連して、ここで国産品を作り、逆に輸出をしようとする根性も出ようというのも一つの動機であろう。
3.さらに現実に企業として、有望なのは、原料として欠くことの出来ない、長石や陶石、陶土のいわゆる原石山が県内に見出され、運賃、輸送など、およそ企業にプラスとなる点もあったこと、それが有力な硬陶誕生への一要素であったことは疑いを容れない。
4.だからこれに適当な人物さえ輩出すれば、何らかのキッカケを得て、硬質陶器製造はものになる。幸いにしてというか、そんな条件の中から吉村又男、友田安清、林屋次三郎などという先覚者三人男が揃いも揃って同一時期に出てくる。それに全国陶業界にも令名ある郷土出身関係の幾多有力な、例えば京都陶磁器試験場長の藤江永孝氏とか、欧州で研究した工学博士の北村弥一郎氏その他力強い窯業関係者の助力や指導もあり、時に自らも加わっていわば硬陶ムードを金沢に盛りあげたこともプラスとなっている。
5.今一つ、前田家や本多家ら旧藩関係の根強い援助のあったことも無視し得ぬ力である。第2代社長松風嘉定が、周囲の反対を斥けてまで当時要整理会社のこの会社を引き受けるその心境を松風嘉定伝記でこう伝えている。「・・・金沢は旧幕時代百万石の大封を有する前田藩の城下で北陸一の大都会である。しかし商工業地としては、地理的に甚だ恵まれざる土地であり、住民も幕政時代の泰平に慣れて進取の気象に乏しい、商工業者としての素質を欠いているためか、金沢に起こされた事業は少なく、若しありとしても業績は振るわない、金沢は教育地としては優れているが、商工業地としては多くの望みを有し得ない土地柄である。日本硬質陶器の設立されたのはせめてこれだけは立派に成功せしめたいからである。かくて前田家は旧藩地の事業の興隆を望むが故に大株主となった、本多家とて同様である云々」。松風氏のそういった見方が、確かに硬質陶器を会社破産の淵から救い松風氏を2代社長に引っ張り出した所以とも思われる。
以上2,3の問題点を述べたのであるが、とまれ、そのような背景のうちに先ず金沢における硬陶製造の開祖ともいうべき3人男吉村、友田、林屋の3氏について語らせて貰おう。
硬陶は金沢か名古屋か
硬質陶器をわが国で最初に仕上げたのは、金沢か、京都か、それとも名古屋の地か、凡そその方面にずぶの素人である編者に分かりようもないし又陶器辞典などめくってみてもその点は触れていない。それで古くから会社顧問で松風二代社長とも相識ること深き松風工業KKの坂井美静氏が、先日たまたま来沢されたのを機にお会いして、意見を求めると「金沢でも名古屋でもどちらも正しいのでないか」という見方である。蓋し公平な評言かも知れない、けれどいうところの3人男の1人である吉村又男氏の長男さんで、金沢市百姓町(幸町)に工場を有し、昔からの顔料メーカーとして知られる、K.K.友田組の吉村宣次氏によれば、"父吉村に間違いなし"と確言する。そういわれると、どうも金沢の地が、硬質陶器創成の功労者たる栄誉を担うような気もするが、それによると金沢で試作したものを、父は名古屋へ持って行って、その製法をみんなに教えこんだという。"父は至って開けっ放しの性格でしてね、その上研究心も強く為に自己の研究の成果を広く門戸を開放して研究に資するという、なかなかに真似の出来ない点もあり、それが結果となって名古屋と混同されるのでないでしょうか、ただ商売では、金沢より向こうは一歩も二歩も先んずるところです、早くこれを企業化へ持っていったのは名古屋で、そんなところに後の鴉が先になった観もないこともないようであります"と語り続けるところ如何にも確信がありそうだ。
一番乗りは友田か吉村か
然らば金沢では誰が硬質陶器の創成者たる栄を担うか、これも極めて微妙なものがある、創成者たる語を広義に解せば、友田、吉村に林屋を加え、3氏共に創成者と称した方が、無難である。ただそのキッカケとなる最初に作った者は誰か、という話しになると、吉村又男か、友田安清か、この両氏にしぼられるのだが、何しろこの両氏、もともと血を分けた兄弟で、何れも養子にゆき、友田、吉村両家をそれぞれ名乗った。友田氏の方は、文書などによるといわゆる創成者であり、大正3年に石川県知事から実業功績者表彰規定による
1.硬質陶器の創成
2.顔料製産の功
として、立派に氏は表彰を受けている。そしてその後も産業共進会、各博覧会等で各賞を授けられ、その間何度も審査員を命ぜられ、その残した足跡も大きい、その他別の文書などにも、氏を硬質陶器の始祖としている。従って弟吉村の名も出てくるがそれは協力者的立場として現れるのだ、然るにそのことを吉村さんに語らしめば"それは父の兄への遠慮と気兼ねというべきものでしょう、万事父は兄を前面に推し立てているので、そのように世間は見るのです、最初に硬質陶器を作ったということになりますと、吉村が先です、けれど友田氏が硬質陶器で父と一緒に、その完成に努力していたことには間違いなく、また友田氏を欠いては硬質陶器云々というのもおかしいです。いわば、この両人と2人に大きな力を与えてくれた林屋組代表の林屋次三郎氏を加えての3人が硬質陶器の創成者であり、功績者でないでしょうか"という。
それはとに角として創成者の吉村又男氏の事績につき紹介しよう。
以下記述するところは、吉村宣次さんの話を主体にしたものであるが、便宜上友田氏についても紹介することにした。
(註)この友田安清伝については、最近郷土史家森栄松氏著「名匠友田安清」の一文があり、編者もこれを参考にさせていただいた。また話題の提供者の吉村宣次氏は去る7月死去された。本文註31頁を参照されたい。
吉村氏の生い立ち
吉村又男氏は慶応4年即ち明治元年金沢に生れ、大正12年57才にて歿せられた。奇しき因縁だが、兄の友田安清氏も、また57才という同じ年で大正7年に一足お先に亡っている。両氏の父君は旧藩士木村畊(たがやす)という。長子安清の9才のおり、叔父友田運蔵の跡目を嗣がせて、友田の姓を名乗らしめる一方、弟又男の方も養子になるのにこんな話しがある。
明治27年のことである、吉村の自宅に近く、予て昵懇の間柄である吉村家に不幸があった際、吉村家から是非養子にと懇請され、俄かに吉村家の人となる。さて実父木村という人は、明治維新に際し、禄を離れると、身につけた学問、技芸を近隣に教え、生計を立てて来た、しかし息子達には、何か定職を身につけさせねばと、2人に絵画や、九谷絵付などの特技を学ばせ、特に藩政末期の陶工として知られ、製陶や着画法で、優れた技能を持つ内海吉蔵に師事せしめた。両名共に絵画に巧みであり、安清の方は10才の折、有名な池田九華について画を学び、斯道に励んだ。雅号を九渓と称し、石川県九谷陶工列伝に加わる人、石川県立工業学校が創設されると、陶画家主任教諭に任命され、後年は、代表的陶匠として令名あり、多くの芸術品を出している。例えば、その代表作としては「斉藤実盛染髪」「美人戯狆」等がある。序ながら"安清の教え子には安達陶仙(正太郎)、今井金泉、木村杏園、広谷水石、青木外二郎等の名匠が出ている=「名匠」友田安清参照="。それから工校を辞して後吉村又男氏とともに柿木畠に友田組を創設し顔料の製造をはじめたことも知られている。友田氏のことはこの程度にして、吉村氏の方は、同様幼少のころから絵画が好きで、毎年母方の方のお里帰りについて行き、付近の子らに武者絵を画いてやるなどするので界隈でこれが評判となった話しもある。
18才の時、石川県立工業学校の初代校長として令名ある、納富介次郎氏にその才能を認められ、石川県産業指導委員に推薦せられ、現在の東京工業大学(前の東京高等工業)の前身、東京職工学校の実習生として上京、講習3年の期間を、みっちり勉強し、陶業一般につき修得した、中でも大きなプラスになったのは、ドイツの化学者ドクトル・G・ワグネルの薫陶を受け、焼物にも自信を深くした。ワグネル師といえば、前述友田安清氏に顔料調整を指導し、友田組顔料の功績者たらしめたが、西紀1868年に日本政府から招かれ、各大学で理化学や、応用科学を講じ、傍ら陶磁器焼成窯の改造や、石炭を燃料に利用することなど指導して、斯業における功績は大きかった。
そういうことで吉村氏は3年の講習を終え、帰県すると、兄の陶画科主任教諭を辞めたのを機に、その後釜として助教諭を勤務、明治24年まで教えていた、然るにこの年、恰度第1回卒業生を世に送り出すのを機に校門を去り、爾来顔料絵付や、焼物につき孜々として、仕事を続けたのである。
吉村氏の硬質陶器第1号試作なる
その吉村又男氏の硬陶創製について、面白いエピソードがある。
明治35年盛夏の候である。36・7才の頃であろうか、5・6才になったばかりの長男(宣次氏)を連れ、片町通りへ夕涼みに出掛けた。そして、今の百貨店大和の前身、宮市洋品店に入るとそこに、当時では珍しい、洋食器の肉皿やコーヒー碗がならべられてあるのに気がついた。英国の陶器の製品であることは後で分かるが、これを手にし、ひねくっていると、先き程からじっと見ていた当主の井村徳三郎氏(現大和社長宮太郎氏の先々代、昭和7年歿)が出て来て、何かと説明を加えた上、"これは金沢在住の外人牧師のご用に応じ持って来たのだ、それにこの皿はどうして、ちょっとやそっとでは割れませんよ"と床へ落し割れないところを見せてくれる、もっとも落し方にもコツがあろう、それを当主が知っての試し落しかも知れない、がいずれにしても金沢ではめずらしい、それに値段も安い、磁器皿が、10銭ならこれは2銭で購えるのだから焼物をやる人にはまさに魅力である。早速数枚を購って、自分の窯場で、之を見本とし研究、試作してみる。約10カ月程の苦心が実ってか、36年5月頃、硬質陶器のサンプルを試作し世に発表した。そのサンプルが出来たという窯は現在も友田組の一隅に残されている。当時の絵付窯だそうである。因みに百姓町所在の友田組はその始めは上柿木畠4番地、今の北陸学院付近にあり明治24年の創業、明治35年、今の工場の前は撚糸兼業の機屋があり動力として水車を使っているところから移転するのを機にここへ工場を持ってきたのである。
吉村氏のこの硬質陶器創成の報は俄然斯界に反響を呼び注目の的となった、ところが氏の性格はこのことで商売繁盛も結構だが、自分のやったこと硬質陶器を、もっと立派に仕上げて完成させたらと考え、これまで苦心して掴み得た製法を、努めて関係者へ公開するという、肚の大きいところも見せ、或いは商売で名古屋へ行くついでに関係者へ伝授するなどした模様で、どちらにしても製法後半年か一年後に松村陶器の技師飛鳥井孝太郎氏が、硬質陶器を造り、これを企業化するに努力した。そして金沢では逆に名古屋より遅れてしまった感もあり、これでは金沢は面白くないと、大いに刺戟され、互いに励まし合ううちに、後記する林屋次三郎氏と手を握り、氏の経営力を借りて、その完成に一段と努力を払ったのであるが、そこへ明治37年2月の日露役が勃発したのである。しかし戦争は序の口のことであり仕事にも未だ影響されていない、その上各地よりの注文も殺到してくるので、増設計画をやるところまで至ったのである。ところが仕事の面で一番の相棒である大西善次(その子息にあたる大西治文さんは、現在金沢で友田組と同じく個人経営で陶磁器顔料商を営んでいる)という職人が、その秋に応召、軍籍に入ったので、折角の増設計画も中止のやむなきに至った。しかし38年5月兵役を解除され、職場に復帰したので、これを機会に本格的作業に移ることになった。もっとも主従2人では充分なことは出来ない。何しろサンプル発表以来というもの、各地から踵を接し、視察者の来訪あり、応接にいとまない上に、雑事も多かったので、誰か製造の方で責任をもってやって貰う人が欲しい。それには兄の友田氏より他にない、当時友田氏は兵庫県出石(いずし)に所在の兵庫県出石陶磁器改良試験所所長に招かれ名陶「出石焼」の興隆のため、業界の指導に当たり、出石焼の名は、全国に宣伝せられるようになる程で、町では大切な人である。明治39年恰も氏の任期の満ちようとするころ吉村氏からこの話しである。そこでここを辞め金沢で吉村氏を助け技師長ということで一役も二役も果たすことになった。
明治41年新設日本硬質の初代技師長に就任したが、安清氏もこうした弟の要請もあり、町の有識者に惜しまれつつ職を辞し、吉村氏の技師長格になって生産に協力することになったのである。林屋次三郎氏が事業に加わったのはそれから後のことである。
× × ×
友田安清氏については最近郷土史家で金沢市鳴和中学校長森栄松氏の「名匠友田安清」の一書にあますところなく伝えている。そこでその文中にある「日本硬質陶器株式会社と安清」なる個所を紹介しよう。先程もいうように吉村宣次氏の談とは若干感じは違うようだが、とに角斯界の功労者であることが窺われる。
(参考)日本硬質陶器株式会社と安清(「名匠友田安清」から抜粋)
明治37・8年の日露戦争後、陶磁器産業は目覚しく発展し、中でも京都において急速に盛んになり、また外国の製品も多く輸入されるようになったのです。その頃金沢では宮市洋品雑貨店(現在のデパート大和)ができて、英国のジョンソン陶器の、洋食肉皿、コーヒ碗等が比較的廉価に販売されるようになりました。これは未だ手工業の域を脱しない九谷焼業界にとっては大きい刺戟であり、かつ脅威ともなったのであります。安清は出石在任中からこの情勢を見通し、如何にしてこの輸入陶器に対抗すべきかを考えてきました。そして着目したのは硬質陶器の研究であります。先ず能美郡の鍋谷鉱山のハイ土で素地をつくり、白玉と称するフリット釉薬を作る等、弟吉村又男と共に苦心研究した結果、ついに硬質陶器の製出にも成功したのであります。それは37年夏のことですが、39年5月出石試験所長を辞任して金沢へ帰ると、林屋次三郎、細川善六等と共に合名会社林屋組を設立し、安清、又男の案出になる新しい窯を築き、硬質陶器の製造を創めました処、その質が非常に堅牢で、日用食器に適したので好評を博しました。更に41年5月その組織を改め、資本金80万円の日本硬質陶器株式会社とし、安清は技師長となって洋風の陶器を大量に生産することにつとめました。これがわが石川県における硬質陶器製造のはじめであり、安清は本県でこの業の開祖たるの名誉をうけているのであります。手工業的生産方法を維持している九谷焼界には、それなりに名匠もうまれていますが少なくとも近代的設備による大量生産工場がここに創設されたことは、石川県陶磁器界の飛躍的進歩といわねばなりません。なお硬質陶器はそのハイ土、釉薬、焼成の温度等は、九谷焼のような磁器とは甚だ相違していますので、その製法には人知れぬ苦心がありました。日本硬質陶器株式会社は、その後いくらかの盛衰はありましたが、現在は隆々と発展し、その製品は盛んに海外へ輸出されております。このようにその頃洋風の陶磁器技術が、金沢に移植されたのは、ワグネルや納富介次郎らに日本の製陶の最高技術を学んだ安清が指導したことによるものであって、安清の生涯の最大の事業であり、本県陶磁器の近代的発展の基礎をなしたものといっても決して過言ではありません。同時にまたわが国産業開発の上にも大きな功績をおよぼしたものと考えられるのであります。
林屋次三郎氏と父新兵衛氏
林屋次三郎氏は、ロシアとの平和克復なった明治39年市内長町河岸に硬質陶器生産の専門工場(旧金沢長町工場)を建設するため、合名会社林屋組を設立し、その後日本硬質陶器創立の功績者として硬質陶器の発展を推進した、わが硬質陶器史における重要な役割を演じた人物である。同氏の事蹟は次のような石川県史第4編にも掲げられてあり"硬質陶器の創始者"として高く氏を評価している。
(石川県史より)硬質陶器の創始者たる林屋次三郎は、もと陶工として平山と号す、明治36年金沢において一新窯を始めしが、その構造は友田安清の考案になりし水平連室式なりき。爾来次三郎は白磁の製造に従事せしも、毎に清白の硬質陶器を得たり、時に松岡初二その工場にありしが、硬質陶器に写真風の着画を試み、二十世紀陶器と称して一時盛んに発展したり。(以上)
その次三郎氏は、現参議院議員で自民党参議院会長の要職にあり、中央地方政財界に活躍される林屋亀次郎氏と兄弟の間柄、父君新兵衛氏は8男4女合わせ12人という大子福者で次三郎氏はその次男、亀次郎氏は8男の末っ子である。この兄弟中で現存されるものは、いうまでもなく林屋亀次郎氏であるが、今一人末妹の林屋弥重さんが京都で静かに余世を送られている。
林屋といえば、市民に昔から馴染の深い本店を横安江町に置くお茶屋さんである、初代は前田藩政の頃、宝暦年間創業した林屋新兵衛さん、今日迄200年という長い年月を連綿として続けているが、次三郎氏の父君新兵衛氏は、第3代の当主である。明治初期から中葉にかけ活躍した人で、明治20年設立された現金沢商工会議所の前身金沢商業会議所の創立発起人になり、会議所議員二期8年間を勤めている。その次男次三郎氏は、兄弟中でも異色ある人物で後年金沢で話題を投げた名物男である。硬質陶器の林屋組を設立したが、その後日本硬質陶器の設立発起人となりこの新設会社へ受け渡し、自らは取締役営業部長に就任している。その後間もなくして社を離れ東京で商売をしたり或いは貿易に途を求めて渡支し、長く北京にあって活動していた。またメキシコへも足を印するという波乱多き人生を送っている。
この次三郎氏のことを現在もっともよく知っているのは林屋亀次郎氏位であろうが、一日編者は参議院に氏を訪れたが、多忙な日程の中を特に時間を割き話されたその話の内容はいとも興味深いものがあり、硬質陶器の事業に、如何に林屋父子が精根を尽し、辛苦の数々をなめたか、聞いてついほろりとするようなくだりもある。以下は氏の回想談を中心に若干補遺して記述した次三郎氏と硬質陶器の関係である。
今もいうように次三郎氏は二男なので、父君とすれば、本業の茶業を継がせるわけにいかない、そんな関係で父君の配慮は、どうせ金沢生まれだから、そこで九谷焼で身を立てたらいいではないか、それも在来の九谷焼では面白くない、新味のあるところを狙って店を出したらと切り出した、尤もお茶屋の方は肝腎な長男の和作氏の気が進まない、己が持す道を行くからお茶屋の方は弟達で継いでいただきたい、というので結局三男の嘉次郎が継ぎ4代新兵衛となった。
それはそれで九谷焼をさせるにしても何処に店を建てるか、結局林屋の持ち地所である南町の現在北国新聞社付近の地所を譲り、一旗挙げさせた。次三郎氏もまたよく父君の意図を体し、この店に精力をぶち込んだ。先ず名は体を現すとか、店名も"二十世紀九谷焼"と称号し兼六園の風景を九谷焼の皿に絵付したのが、風変わりとのことで土産品として盛んな売行を見せた。表看板が、その頃では稀らしい二十世紀というのだし、またその看板の名に恥じず、二十世紀九谷焼写真の焼付にかかったところ、これが日露役戦死者の写真や、兼六園風景を転写したので時代の嗜好に投じたというか評判を重ねた。かくて林屋次三郎という若手実業人の名も売れて来たのであるが、そういえば「金沢の三らっぱ」という異名もその頃巷に流れていた。三らっぱとは、現在の大和百貨店の前身宮市洋品店主井村徳三郎氏(故井村徳二参議院議員の厳父)と片町の菓子舗として知られる石川屋の先代石川弥一郎氏及びこの次三郎氏の3人を指すのであるが評判通りこの3人は揃いも揃って大きなことを口にし人を煙にまき、それが内気な金沢人の話題をさらって常に新鮮味を与える評判男となった。といっても何も3人の言行は無責任の方言居士でもなさそうだ、3人なりに口にすることは、案外に真剣で時に実行に移す有言実行の喇叭手として人気があり、またひそかにおそれられたりした。前記次三郎氏の硬質陶器で長町工場を始めたのは当時の大ニュースであるが、店に硬質陶器の皿を陳列して、金沢で硬質陶器の基いを作った因縁は別としても、大正12年現在の大和、当時の宮市大丸を創設するまでの、動きというものはまことに派手である、余談だが、徳三郎氏は慶応3年生れ14才の少年時貿易を志して横浜に出たのを振り出しに、兄が亡くなって金沢に帰ると宮市洋品店を創め、洋物をやった。明治36年洋服、洋酒、帽子などと片町の各店に散在しているのを、今の大和の所に一纏めにして建てられたのが宮市洋品店である。その間金沢市から派遣されて浦塩に行ったのが、外国旅行のトップである。それから第2回は英国へ、第3回は巴里へ、第4回はベルギーへと都合4回海外へ旅行したのは今と違った環境において、しかも引き込み思案の金沢では稀しい。それから大正年代アート・スミスという宙返り米国飛行家を野田原頭に招いて市民にその妙技を見せるなど、何かと話題に花を咲かせる人物であった。
また次三郎氏の場合も、行なうところ進取果敢、霸気横溢しかも機に臨み変に応ずるゆとりがあり、少し位の苦しいことでクヨクヨするものではない、とに角非常な精力家で他の追従を許さない。当時金沢の九谷焼界は、専ら絵付が主体で、本窯を持つものは殆どないという有様、編者の聞くところでは西町の今の藤花高校辺りに藤岡という窯元があった位だそうである。こんなことでは金沢九谷は何時まで経っても、他地の糟粕をなめるばかりであると考え、前期吉村、友田氏らを技術顧問として、相談したところ南町の自店付近に窯を築造し、その頃窯師として知られる細川善六さんに原料を手配させ、本格的に築造したのである。明治37年の頃であるが、この窯の方式を水平連室式窯といって、斯界に話題を与えた、これは"一新窯"と名付けた新方式であるが築成上若干不充分な所もあり、感心出来ない仕上りである。そのため次三郎氏も相当借財を生じ、ふところ具合も苦しくなったので、父君にしばしば融通を仰いだ、父君はこれに対し、嫌な顔一つせず、その債務を保証してやり、時には自分が代り直接弁償を行い、次三郎氏の熱意を沮喪させないよう計らった。それというのも大いに為すある息子の太っ腹に惚れ込み、手腕を信じているからであって、苦情がましい顔付一つしなかった。むしろ息子を激励し、声援を惜しまずその上自分までも、本業のお茶屋の方は、店へ委せきりで、自分は南町に泊り込み、次三郎氏と起居を共にし、他日の成功に深く期するところがあったのだ。
幸いにして、窯の方は改善せられ、加えて評判宜しき転写の方も引続いて順調に運んだので、かなりの利益をあげることも出来どうやら創業以来の苦心も報われたようである。
硬陶に転換で林屋組設立
尤も、日露役が終わるとさすが好評の写真焼付転写も今迄多かった遺家族の注文が細って来た、それに時日が経過すると写真が変色するので評判が落ちてくる。こんなことで先行見通しもついたので、ここらで何らかの転換策で新局面に出でんものと父君にも相談したところ九谷焼は特産品としては捨て難いものがあるけれども、畢竟国内向け需要である。日本が戦争の後始末をつけるには、内に経済力を充実せしめることが肝要だ。それには大いに貿易を振興し、輸出の拡大をはかるということで硬質陶器に転換したらどうか、ということで吉村氏と仕事をしている友田安清氏に相談し、吉村氏も一緒になって硬質陶器を本格的にやろうとする、折もよし、前記の原石山を発見し、一方資金面では井村徳三郎氏も加わって合名会社林屋組が創立されたのである。
ところで林屋組新設のアイデアには、戦後貿易の伸張ということがいわれたが、そういえば日露戦後明治39年から40年にかけ、輸出貿易の伸張ということが凡そ事業を為すものにとって相言葉のような魅力的なものだったのである。松風伝記によるとこの空気を次のように伝える。
当時のわが国における世論は、輸出貿易の奨励を強調し、日露戦役によってわが国民の新に負える20億の債務は、貿易の差額を以て弁済するのほかなし、わが輸出品の製品を奨励し、官民一致してこれに便宜を与え、障害を排すると同時に、その輸出を敏活ならしめんがため、交通運輸の利便をはかり、一切の施設は専ら輸出貿易を増大する目的を主としなくてはならぬ、というのが殆んど国論の如くに思惟せられた。しかも当時の外務大臣小村寿太郎氏は帝国議会において
「わが国維新以来外国と事を構うる前後3回なるもいまだ一回も我より侵略主義を取りしことなく、悉く正当防衛に起こりしものなり、殊に本年度予算の専ら整理を主義としたるより見るも、わが国が徒らに外国と事を構うる意志なきことは明らかである。本大臣はここに政府を代表するのみならず、国民を代表してこれを断言するものである。ただ商業上においては、侵略といわれるも可なり、要は機会均等、門戸開放主義により、進んで貿易の発展をはからねばならぬ、これむしろ天賦の人権である」
と声明し貿易の発展においては、侵略と称せられるも敢えて厭うところに非らずと、豪語して当時の世論なる貿易発展に大なる声援をしているのである。これを以てみても、明治40年前後におけるわが国が、いかに海外に商権の発展を期するに努力しつつあるかが明らかである。
林屋父子始め硬質陶器の海外発展に志しある所以のもの、恐らくこうした全日本的な貿易の上に発展せんとする、今日の流行語でいえば、一種のムードが強く引き立てたのであるまいか。
ところで林屋組が鍋谷にある原石山を得た経緯は記述したが、遺憾ながら、この原料で仕上げた製品が、どうも質が脆弱である。試みに落すと、殆んどが壊れてしまう。これではならぬと更に工夫改良を加えたので、どうやらものになり、その半分は壊れないようになった。そこで更に勇を鼓し、研究努力したお陰で製品価格も上り、林屋組で作ったものは壊れない、外国品と太刀打ち出来る硬質陶器と、自信を深めるに至ったのである。そうなると不思議に評判が立ってくるもので、それが花街で誰が口ずさんだか、いつとはなしに三味線の糸に乗ってくるこんな唄が、四畳半から四畳半へと流れ出した。
安くて良くて 高尚なのは
硬質陶器の本領よ ほんに今では日本一
見られる通り何ら変哲のない唄い文句でが、ブッツケ本番の宣伝文句だけに覚えるのも早い、現在こんな唄を三味線に乗せた当時の姐さん連もすでに他界し、当時の回想をするよすがもない、浅野屋の老女将で有名な茶子さんも最近亡くなり、今存命しているのは音羽さん位という、何にせよ随分昔懐かしい話しである。
このように、事業の前途に光明を認めるようになると、工場の拡張を行なわねばならず、それには南町のような中央部で工場を拡張するのもどんなものであろうと考えていたところ、林屋家の所有地で茶畠のある長町河岸の一角今の日本硬質陶器旧工場のあるところを、次三郎氏の友人で機業場を経営し、且つ水車動力を有する小島甚右衛門氏から、ここを手離すという話を機会にこの機業場を改造し、引移ることになった、このことは石川県における硬質陶器史上重要な一齣(いつく)をなすものであるが、とに角硬質陶器をここまでのし上げた苦労は大変である。それを林屋亀次郎氏は、次のように回想される。
林屋氏の回想談
兄次三郎の性格は、極めて大胆で、金沢で三ラッパの名に背かぬ当時の花形役者である。しかも無責任なホラ吹きでない、このことは硬質陶器が海外で、素晴らしく好評を受けている実績を築き上げたことでも分かるが、この事業を苦しい過程にあって、何とかものにさせようと、息子に劣らぬ不屈の精神で共に歩んだ新兵衛の力強い援助のあったことも見逃せない。実際父の息子への熱の入れ方は、大変なもので弟の私からみても涙ぐましいほどの真剣さである。あの苦しい仕事上の金繰りを、何とかしてやりたいと、所有する広い土地を惜気もなく譲っては金に代え、その他いろいろと金の工面をしてやった、当時林屋家は、今の専売公社の敷地に元長町高等小学校があったのでこの学校分だけを除いてあの辺全部を所有していた。その他穴水町の元第一高女跡の敷地や、横安江町にある各地所など、凡そ2・3町歩にも達していた。このように林屋家が、当時市内各所に地所を持っていたのは美談といわれるような凡そ次のようなエピソードがある。明治維新の際、秩禄から離れた落魄の武家が、生活の苦しさから、所有の土地を手放して金に替えねばならない。けれど西南役後の物価昂騰を、デフレ策で押えた不況は金沢でも深刻である。とても売れる機会はない、それを父は見かねて、折角買い上げてやったのが、いつか膨れ上ってしまったのである。と云って林屋家とてどうすることも出来ない、それで商売柄茶畠としていたのだが、今は次三郎の資金用途となって盛んに息子に継ぎ込まれたのである。
新会社設立の動機
その林屋組を解散し、新会社を設立した動機であるが、それにはこんな話がある。
南町から長町河岸に移転したのは、小島甚右衛門の工夫になる水車動力が、魅力で大量生産化を考えたものだが、さてここでやってみると期待に反して出来上がりが面白くない、それで折角の契約も解除されるという悲境に陥った。これに対し父子は対策を協議した結果、国家的事業となった硬質陶器をより優秀なものとなすことが、なによりの不況対策である。といってこれのみに力をいれて、本業のお茶の方を疎かにすることも出来ない。しかし折角ここまで持って来たのだから、この事業を強化し立派なものに仕上げるためには、林屋組だけの力でなく一つ新たに強力な会社を起し広く有志者の出資を得て、伸ばすことが適切な対策だ。このように考えたので次三郎は旧藩主前田家を始め在京の郷士出身成功者、門閥などにその趣旨を説明し大いに奔走した結果、遂に成功し日本硬質陶器の創立ということになり林屋組の事業を譲ったのである。
かくの如く、父新兵衛の次三郎の事業を何とかしてやろうという態度は全く真剣そのものである。彼の事業を終始一貫庇護して、凡そ自からは倦むことを知らない、いわば事業に対する執念である。そのため損失でどうにも出来ねばその穴埋めを自から行なって多額の資金を融通した。もちろん手形の裏書など常時で普通の状態では親子の間でもとてもできない相談だ、しかも父の偉かったことは、本家の嘉次郎に知らせないよう万事を処理している。金のやり繰で2人の間に波が立たないよう万事配慮の上のことである。その上次三郎の仕事をスムーズに運ばしめようとするから大変だ、とに角家業を継ぐ三男と硬質陶器の二男との間に立って、人の測り知り得ぬ心労の数々を踏んだ父の心境は涙ぐましいものである。
今にして思えば、父の次三郎を何とかものにしてやろうという熱意のほどが知られるが、如何にも親味溢れる、このような援助が無ければ、果して金沢で硬質陶器の事業を将来に残し得たであろうか、陰の功労者としてこの内助の功は硬質陶器の歴史に忘れ得ぬものがあろう。
さて次三郎は粟崎の名家木谷家より良妻を得、琴瑟相和する夫婦生活を営んだが、子のないところから三男嘉次郎(四代新兵衛)の子息辰三郎を養子に迎え家督を継がせることになった。その辰三郎君は、今日日本中世史の権威者であり、立命館大学教授、京都大学講師として講座に立っている学者として斯界に知られている。今回近年目を見はるような発展ぶりを示す日本硬質陶器社史を編纂すると聞き、たまたまこれが創設者として林屋父子のつぶさに嘗めた一端を掲載されるということは、往時を回想し感慨深きものあるを覚える。さぞかし地下に眠る父子の霊も慰められるものがあろうと心から本社史編纂を喜ぶものである(云々)。
父君新兵衛氏の末っ子に生れた林屋亀次郎氏の回想は、如何にも当時の実感を呼び起こすに足るものがあるが、風雪ありて松樹の操を知るとか、人の真価は艱難に際して始めて知るという。硬質陶器創業にかけての以上の話のような人々の努力というものは、正に硬質陶器前史を飾るに相応しいものがある。
余談 林屋次三郎と井村徳三郎氏の友情
硬質陶器と宮市の井村徳三郎との因縁は前にも少し触れたが、井村氏は林屋組にも出資して宮市はその一手販売権を得たが、それが日本硬質陶器の創立で、この契約も解消された、とに角両氏の間にはお互い忘れ得ぬものがあろう。井村氏が昭和7年3月66才で未だ為すある歳で亡くなられたが、その後大陸から一時帰省した次三郎氏は徳三郎氏の他界されたことを聞き、そのお寺が常福寺であるということで一瓢を携えて墓所の詣で、酒を捧げるや"井村さんもこんなお寺さんに居るかいや"と静かに冥福を祈り、「お下り頂戴有りがとう」とくだんの酒をたしなみながらありし日のことなど想い浮べたという(この項林屋夫人の談)。
林屋、井村といえば、金沢では余りにも知られるライバル物語りの最右翼を為すものであるが、編者こうして硬質陶器史を書いていると、何かほのぼのと感ぜさせられるものがある。
また次三郎氏の話しに戻るが、以上のように焼物では苦心惨憺ぶりであるが少し位の弱り目や祟り目でへこたれる男ではないのも彼の気性である。大正4・5人頃の事である。氏は大陸から美事な仏像を持ち帰ったが、都合でこれを処分せねばならなくなった。それを東京の定宿の玄関先に安置して、売り先を待っていたが、なかなか買手がつかない、しかしそんなことは一向に気にしない。2カ月、3ヶ月そこに置き放しにしているうち遂に好い買い手が現れたという話しもある。
ベルギー投資団から50万円の借入談議
硬質陶器創業時の苦心
林屋次三郎氏の記述から・・・
編集記、実は本58年史の原稿を印刷に廻わし、ほっとしたところ、かねて編者より林屋恒次郎氏(林屋株式会社代表取締役)を通じ林屋次三郎氏の写真等お願いしてあった資料が、京都林屋辰三郎氏から同氏を通じ送付せられたのを手にした。写真の来るのは期待通りだが、当の林屋次三郎氏執筆の貴重な創業史の一端を手にしたのは全く編者の意外とするところで、それだけに会社創設に伴う正確な資料を得たことは本58年史における大きなプラスである。
この林屋次三郎氏の資料は、林屋一門の同人雑誌「えにし」の第2号、第4号にある「硬質陶器の創業について」と題する林屋次三郎氏の記述によるものである。これは昭和12〜3年に各発刊されたもので、現在この同人誌"えにし"は廃刊されているという、まことに硬質陶器にとっては得難い資料を得たものである。これでみると、本文に触れてない点が非常に多い。また友田組社長の吉村又男氏の語られたものとも若干違っている点がある、読者はこれらをとり合せ読んでいただこう。
この一文を読んで感ずるのは、今更ながら、氏の事業に対する執念というか、ひたぶるな事業達成への精進努力である。且つ知られざる当時のエピソードも幾つか現われて極めて興味深きものあるを覚えた。
さて本文の中、注目を惹いたのは
1.当時の大阪商船社長中橋徳五郎氏に九谷焼では伸びない、何か発展させるよき方法はないかと、衷情を披瀝し相談したところ、中橋氏は大阪商船が直接注文した英国ジョンソン社製のコーヒー茶碗を見せて激励したことが機縁となり、吉村氏らと共にこれに適する窯を作るため3カ月間に亘り苦心を重ね遂に成功した経緯がある。
2.森村組の工場長飛鳥井氏が、石川県出身のよしみで、ドイツ製の窯を吉村氏らに見せて貰ったこと。
3.農商務省森田商工局長の紹介で長町の閉鎖中の小島甚三郎工場が2万円で担保に押えられてあるのを、勧業銀行総裁に面談しこの工場を譲り受けたこと。
4.その長町工場が閉鎖中のため丈余の草で埋もれさながら狐狸の住いとなっているような荒れ果てた工場を整備することになったが、その資金が無い。それを井村徳三郎氏(今の大和百貨店の創設者、宮社長祖父)から1万円の出資を受けそれに父の後援で四方八方の苦面をしたいきさつがある。
5.さては鍋谷地区の原石山全部を手に入れた処、相変らずの資金難、恰かもベルギー投資団から50万円で借款することになっていたのを、これを聞いた早川千吉郎氏が日本に人なきかといわれるは残念である。株式組織として作ったら如何と、とに角外国からの借款を思い止まらせ、遂に各方面の出資を得て日本硬質陶器が創成されたことである。
6.最後に本人の退陣理由など記述する点興味が深い、ただこの次三郎氏の記述を読むと時に本文に喰い違いや相違のあるところもある。しかし本文もそれぞれの関係方面から資料を集めたものであるので、それはそれとして、参考として、ご諒承ありたい。
「硬質陶器の創設」
[T]
私が28才(明治33年)の歳に独立して金沢市南町に加賀名産の九谷焼に店を開きまして、九谷焼のその時代の大勢を観察致しましたのに、九谷焼というものは、一体絵付の工合が上流の家庭的にはあまり好まれず、また大衆的には価が割合高価にして一般家庭には歓迎せられずに、いわば中途半端の焼物のように考えましたので一そのこと、これに高尚優雅な趣きを加え上流社会の用途に供給したいと考えました。これを実現するには先ず九谷の原質たる白磁の大改良をはかりその絵付の優美を加えなければならぬと思いましたので、先ずこの白磁の根本的の改良をなさんとして、わが店の向う側に土地を買収して窯を築き、九谷焼の熱心な優秀の職工である細川善六兄弟3人を聘し、職工の幹部技師長として、友田安清氏の令弟吉村又男氏を依頼して工場を開設し、非常な苦心の結果、立派なる白磁を造るに成功したのが、明治34年でした。それから絵付の改良をはかるために、加賀九谷焼絵付職工の優秀なる人を選ばんとして百方苦心の結果、京都錦光山宗衛門氏の絵付職工にて金沢出身たる柳田素山氏を見出し、九谷焼改良の趣旨を説得し、ついでこれをわが工場に招聘した、同氏の監督のもとに九谷焼の優秀職工十数名を抜擢し、非常な苦心を重ねて、その目的の大半を具備したのが明治35年でした。さてその製品を市場に売り出したところ非常な歓迎を得ました結果、30才にして加賀九谷焼同業組合長に選任せられました。
丁度その時に京都内国勧業博が開催され、これに出品したるに畏くも両陛下ならびに皇太子殿下の御買上の光栄を忝うし、つづいてベルギーの世界万国博に出品したるに名誉大金牌を受領しました。また米国セントルイス万国博に出品し美術品、工業品に対してそれぞれ賞を得ました。
此の如く、九谷焼改良最初の目的は、ほぼ達することを得ましたが、販路微々たるものにして、到底わが国の貿易に何らの影響もありませんので衷心甚だ煩悶しつつあり、どうかして少しでもわが国のためになる陶磁器を得たいと、日夜考えました結果、むしろ大衆の趣向に適するもの、それには堅固にして美麗そして低廉なものでなければならぬと思いました。よってわが国の陶磁器界の各産地をよく視察する必要を感じ、私と吉村又男氏の2人で、北は会津より美濃、尾張、京都、四国、九州等を視察しましたが、あまり得るところなく大いに落胆して大阪に出まして、わが金沢出身の大先輩たるその当時大阪商船株式会社の社長であった中橋徳五郎氏を訪問して、この事情を披瀝し、何か良き方法もなきかと相談しましたところ、同氏も非常なる同情をよせられて、同社の陶磁器の倉庫に案内されまして、いろいろと拝見しました。その中に同社が英国のジョンソン会社に直接注文して取りよせた肉皿とコーヒ碗皿等がありました。
中橋氏のいわれるには、これは日本では斯業の人々で今日までこれを製造すべく非常な苦心を持ってやった人が沢山あるが、皆失敗に終り一つも成功しないのである。これは原名をフイアンスといっていわゆる堅固な硬質陶器であって、当社はもちろん、郵船、海軍省その他各ホテル、料理店に必要な品であるが、現在では悉く輸入品にして、わが国に一箇の産出もなく、需要は年々増大するばかりで、現今の輸入総額でも100万円を越えている。君もこれまでの熱意があるならば、小にしては九谷焼の根本的改良のため、また大にしてはわが国貿易のために一大奮発してこれに成功したらどうだ、ということを熱心に説かれました。考えてみるに、このフイアンスは私が考えている理想の品だと思い中橋氏の説も尤も至極だと思って宿舎に帰り吉村氏といろいろ相談をしたところ吉村氏は自分も数年先からこれの原料は必らず石川県にあるだろうと考えている。しかし原料と釉薬の問題だが、実にこれを成功させるには非常な苦心と努力とを要するのである、どうだ一つ互いに力を合せてやって見ようではないかということに話がきまり、中橋氏に再び面会してこの決意を語ったところ、出来るだけの後援をするから努力しなさいと励まされて金沢に帰りました。それから父にこの事を報告して相談したところ大いに父は賛成して十分の後援をするから意を決してやれということになったので、非常に力を得て吉村氏とともに加賀国江沼郡、能美郡その他能登の国までも跋渉して原料を捜査して、その間6カ月もかかって苦心しました。やっとの事で天佑にも能美郡鍋谷村において最も優秀なる原料を発見することが出来ました。(註)31頁参照
この時の2人の喜びは到底筆に尽し難い程でしたが、その山は全部民有山にしてこれを買収するには相当な金額の用意が必要なるところ、前年来九谷焼の改良に、多大の資金を投じたるため、この買収は甚だ困難であったが、父の非常な熱心の後援によってこれを買収することが出来た。さてその原料を掘り出し工場に運搬して、これを製造するには、原料の破砕、水こし、練り方悉く電動力を要し、また窯は従来の如き木炭にては不可能で、石炭を用いねばならずそれには西洋に用いられておる倒焔式でなければならぬので、それらの窯も築かねばならず、一面には資金の苦心、一面には科学の知識の苦心、実に一大困難に遭遇した。
けれどもその間父の激励、中橋氏の後援またその事が農商務省にも聞えて、その筋からの後援もあったので、吉村、細川氏らが協力し、また吉村氏の令兄の友田安清氏が、その当時兵庫県におられたが、これも多大に声援せられ、やっとの事でこの難関を突破することを得たけれども、さていよいよ皿を造ってみると皆ヘコヘコになって曲り窯に入れて焼くと、千枚のうちに2・30枚しか完全なのがとれず、実に一時は失望落胆して、どうしようかと思ったがいろいろ吉村氏や皆とも相談研究した結果到底こんなことをしていては、一カ月に一回しか窯が焼けず、従って結果も一回では費用のみかかるので、何んとかこれに対し、研究をすることになり、その結果友田、吉村氏の非常なる苦心の末、皿を十枚程入れて焼ける小窯を作る事を思い立ったが、小さい窯では、到底1300度以上の熱度を持つことが困難なので約3カ月苦心を重ね遂に小窯に成功した。これが硬質陶器発明の促進的原動力となって、それからは毎日々々試験し得ることが出来るようになった。私と吉村氏はその窯の前でどれだけ夜明しをしたか数知れぬほど苦心した。
ところが、マアこれで皿の素焼は凡そ完成しましたが、皿を造るのを機械的にしないと均一しないので困ったが、その当時わが国では、機械的に皿を造っているところは何処にもなかった、いろいろこれに対して苦心を重ねた結果、漸く名古屋の森村組の製陶工場で、最近ドイツよりその機械を輸入して製作していることを聞いたが、なかなかの秘密で誰にも見せないので、どうかしてそれを知りたいと思ったところ、幸にも森村組の工場長が、石川県出身飛鳥井孝太郎という人であったので、漸くつでを求めて同氏に頼み、その機械を見せて貰って製作を習ってやってみたところ、ギブスの型にあててやるのだから、とても簡便にそして均一にたやすく出来るのでその時は実に嬉しかった。誠に同郷の人なればこそと感謝しました。
まあここまで原料を得、原料の製造も出来、窯も出来て皿やコーヒー碗皿等も出来るようになったけれどもフイアンスの一番むずかしい事は釉薬である何故ならば普通の磁器の素焼は600度位に焼いて釉薬を1300〜1400度位で焼くのであるが、フイアンスはそれと反対で素焼が1300〜1400度に焼いて釉薬を800度の熱度で焼くのであるから素焼に薬を吸収することが、なかなかむずかしい。たとえ吸収したとしても、釉薬をかけて焼きあげてから素焼の原質と釉薬の系質が、あわぬ時はすぐ釉薬にひびがいって用いられぬような恐れがあるので、それから釉薬の苦心に取りかかったが、これがまたなかなかうまくゆかないので、このために6カ月程苦心して、どうも困ってしまった、ところが農商務省の工業試験場に所長をしている北村弥一郎という人が金沢出身で英独に長く留学してフイアンスを研究して最近帰朝したことを聞き、友田、吉村両氏に上京してもらい一カ月程も滞京して漸くその秘訣を習い金沢にかえられた。これも全くの同郷の誼で、しかも目的が、国家のためだという同情心からこんなにたやすくこの秘訣をもらしていただいた事を思って私始め皆が喜びました。
それで漸くフイアンスの最小限度の試験時期も終わったので、いよいよ大きな窯で本当の試験をやることになりました。それが丁度明治38年頃でした。時恰かも日露戦争の終りかけで、世間もそろそろ景気が良くなりかかっていた。その試験で出来た品を始めて不完全ではあったけれども、大阪商船に送り、私が大阪に行って中橋氏に面会して品物を見せて今日までの苦心談を話しましたところ、至極まだ不完全な品にもかかわらず、中橋氏は非常に喜ばれ、私の手を握って、ようこそここまでやってくれたと非常に喜ばれた時は実に感慨無量でした。もとよりこの荷物を出した時には父をはじめ親類一同も皆来て下さって非常に喜ばれましたので数年の苦心も忘れたかの如く思いました。
[U]
前回で申上げたように、不完全ながらも硬質陶器も成就しましたが、これが大変な好評となりまして、農商務省はもちろん、わが国陶器界の人々が相次いで工場を訪れて参りますし、陸海軍の食器にもこれを応用しようという風な話も進みまして、日本郵船、東洋汽船からも続々注文が参りますし、いよいよ南町の小工場では狭溢を感じて来ました。この際大工場を設備して、最初の目的たるわが国における硬陶の輸入を先ず防圧せねばならぬと感じましたが、すでに今日まであらゆる困難をなめ尽し、会社は四方八方あらん限りを借り尽してあるので、それに要する資金の途なく殆んど途方にくれておりましたところ、農商務省の商工局長であった森田茂氏が来沢せられて、工場を視察せられ私の今日までの苦心経営を非常にご賞讃になり「今晩君と一杯祝盃をあげようではないか」と森田氏の招待で北間楼へ行き大いに飲みました。その際氏は「君これまでするには随分金にも困ったろうが、自分は国家的見地から出来るだけの声援はする、心丈夫にやれ」ということで私も大いに喜びました。その後長町河岸町に明治初年に石川県の士民の授産工場として建築せられ、畏くも明治天皇北陸御巡幸の際には御臨幸の光栄を賜りたる大工場が、その後小島甚右衛門という人が買受けられ大羽二重工場となっていましたのが失敗に終り閉鎖していましたのを見出し、これを私の工場にしたいと考えましたが、前述の如く資金に困っていましたところ、勧業銀行にこの工場を担保として2万円を借りてあることを聞きましたから、どうかして、これをそのまま譲り受けたいと考えましたので、すぐ上京して農商務省に参り森田局長にこれを相談しました。同氏も非常なるご賛成にて「おれが尽力する」と快諾せられ、私を同道勧業銀行総裁に面談事情を詳述せられたところ、大体において国家的事業であるから内金も何もいれず、そのまま15カ年々賦にすることにして承諾されました。これには父の保証をせよとの事で直ちに帰国、父に懇願をいたしました。
その頃の林屋家としては、宇治木幡に在住された林屋友作氏(隠居後友貴)も国家的事業であるからとて、快諾せられましたので早速その手続きをとってその目的を達することを得、この工場がわが所有に帰した時は、筆紙につくしがたいよろこびでした。この工場は地坪2800坪ありまして建坪が1600余坪ありました。それが2万円の担保で誰でも買い手もないということは今から思えばうそのような安いものでした。
さてこの工場は手に入りましたが、永らくの間閉鎖していましたので、草が丈余に伸び、さながら狐狸の住家のような有様なので、これを整理し、精錬所作業所、窯等を築きますには幾ら少なくみても(その頃の安い物価でも)5,6万円は要するので、どうしたらよいかといろいろ苦心しました。ところが片町の井村徳三郎氏という親友が、この事業に着目せられ、わが製品の一手販売権を得たいという申出を受けましたので、いろいろ懇談の末、1万円の金額を提供して頂いて、一手販売を同氏に提供して、工場を二番抵当にして1万円を借り、その他父の後援によって四方八方駆け廻わり、漸くその設備に取りかかりました。そこで仕事をするには第一に和というものが大切である、各々関係者一同で協力一致してやらねば如何なるよき仕事でも成功せぬと考えましたので、今日までこの事業に対し苦心を共にし協力をなし来った吉村又男氏に相談してその令兄たる友田安清氏を兵庫県出石陶器試験所から帰っていただき、工場長の細川善六氏も入れて私が代表社員となり、資本金5万円をもって合名会社林屋組を組織しまして陣容を整え、小松豊雄氏があたかもその時亡妹久子へ入夫せられたので直ちにこの工場に来ていただき、すべての会社事務を委任しました。
そのようなわけで追々と本格的の工業組織の面目を備え来ったと同時に、新工場の設備はぐんぐんと眼に見えて進捗しましたが、出るものは金ばかりでその間収入とては少しもなく、私一人がその衝に当り、実に東奔西走日も足らざる有様でした。ところでこの原料たる鍋谷の原料山が、民有地でありまして、小さいのを一つ買っておいたのですが、その連続する山々にも原料がありますので、このように大工業に進みますと同時に、この原料山を全部買収せねばならぬと考え、それにもまた非常な苦心を重ね漸く全部手に入れることが出来ましたのでこれで大方形がととのいましたが、何分にも資金に非常に無理をしましたから日夜これが整理に頭をひねりました。ところが農商務省の森田局長から手紙が来ましてこのたびベルギー財団から日本の有数なる工業に投資したいといって財団有力者が来朝したから直ちに相談に上京したらどうだといって参りまして大いに喜び直ちに上京して50万円の借入(工場、原料山を担保)を申し込みました。大分話しが進捗している最中に、出京の序に大先輩たる早川千吉郎氏を訪問し、談たまたま事業のことに移り、この度の上京はベルギー財団の投資のためであることを詳細に話しましたところ、早川氏はこれに対し
「今日まで君が事業のため、非常に忠実に真面目をもって苦心していられることは常々聞いていた。実に国家のため喜ばしいことだと秘かに感服していると同時に、何かぼくらに相談があるだろうと考えていたのに、このような国家的事業を外国の投資団によって援助を受けることは全く日本に人なきかの如く思われる感がある。これは何としてもわが国の資本でやらねばならぬ、ベルギー投資団との話もうまく進んでいるだろうが、それは是非思い切ってくれ、ぼくが出来るだけの尽力をするから」
という話しが出たので、私も早川氏の所説は至極もっともだと痛感し、森田局長にもこの事情を打ち明けて話したところ、
「これはこの上もないよいことだ、万事早川氏にお願いしたらよかろう」
といわれ再たび早川氏を訪問
「万事お委せするからご宰領をお願いする」
と願い出たところ、早川氏は欣然快諾せられ
「早速株式会社にしようではないか、前田侯爵家も今まで金沢の事業に対してこれという投資もしていられないのであるから、この機会に私よりお願いして(当時早川氏は前田家の家令であった)大株主になって頂くからその他の株の募集も責任をもってやろう、自分は三井銀行の会長をしており非常に多忙であるから親友たる萩原芳明氏に万事相談してくれ」
というお話しで、それより萩原氏と万事相談した結果、ほぼ80万円の資本金をもって名称を「日本硬質陶器株式会社」と称することに決定し当時石川県の県会議長、金沢市会議長をしていた宮野直道氏とも万事相談することに打合せて帰宅しました。
それからずんずんと好調に会社組織の準備が進捗し、結局私の合名会社林屋組を25万円で新会社へ譲渡し、前記の資本金額及び名称をもって組織することにし、前田侯爵家が大株主となり、早川千吉郎、中橋徳五郎氏ら金沢出身の有力者を大抵網羅し株式募集を完了しました。社長に宮野直道氏、私も重役の一員に列しまして友田、吉村両氏をそれぞれ技師長、副技師長、細田氏を工場長とし私は会社の営業の一切を引受けました。
この会社の成功と同時に硬質陶器の名は全国に普及し、陸海軍の食堂その他の注文日に日に殺到し、多年の苦心もここに報いられ、ちちよりの援助せられたる資本金も全部返却し遂に目的を貫徹しました次第であります。これは私の37才の時でありまして明治42年であります。
好事魔多し
ここまで成功いたしましたが、好事魔多しの譬の如く、新会社の各重役はただ眼前の社運の隆盛たるに眩惑せられ、将来の見通しを怠り、私が現状維持は退歩なりとしばしば苦言を呈しましたが、容れられません。必ず将来この大反響を来し悲運の来る時あるを察知しました。且つ重役諸氏の間に軋轢を生じ、まま和親を欠くことあり、前述の如く如何なる好事業なりと雖も、和衷協同なからずんば到底完美を得がたいことは天理なるが故にここまで達成せし事業も前途の程も思いやられるを痛感し断然会社を勇退しました。私の所懐はすでに硬質陶器の輸入を防圧し進んで国外に輸出をみるの実情にまで達成したる以上、この事業のみに固執するの要はなく、むしろ更に国家のため新事業を開拓することが、私の天職なりと自覚したる次第です。時に明治44年でありましたが、私の勇退後2年ならずして会社は、私の予想の如く非常な悲境に陥ち入り宮野社長は死去し遂に全重役辞職し、会社経営の全部を京都の松風氏に譲渡のやむなきに至ったのであります。而して友田安清、吉村又男、細川善六の諸氏も相次いで死去し、まことに寂莫を感ずる次第でした。その後25年の星霜を経たる一昨年昭和11年12月加賀九谷焼陶器同業組合創立50周年記念事業に際し「全国に率先して硬質陶器の創成を達し日本硬質陶器会社を設立して現今隆昌の基礎を築く。その功績顕著なり。依て銀盃を贈り茲に之を表彰す」という表彰状をいただきましてまことにうたた今昔の感に堪えないものがありました。(林屋次三郎氏記 "硬質陶器の創業"から)
長町工場の前身は金沢撚糸会社
なおここで長町工場の前身について記述する要がある。順序として隣りの倉庫精練は、明治維新前後、村井家の邸宅があった処で、初代、金沢市長長谷川準也はこれを買収、金沢製糸会社を設立工場を建てたのである。当時秩禄を離れた士族の生活不安を、救済する一助として、殖産事業を興す趣旨で創めたものであるが、この製糸工場は、明治産業史で有名な群馬県の富岡製糸工場につぐわが国第二番目の製糸工場として知られ、明治7年8月操業したのである。長谷川はこの製糸会社設立が終ると、今度は隣地に金沢撚糸会社工場を建設することとなり、それが後日小島甚右衛門の羽二重工場となり、その経営が失敗した後、林屋組が買い取り工場として整備した、時に明治41年である。資金2万円と他に1万5千円を借り入れて作ったもので、敷地は硬質陶器の個所である。撚糸工場能力は、1日50斤生産の撚糸と同じく生産能力25斤の撚糸機を据付けたものである。この建築及び設置する撚糸機と付属機械の一切ならびに原動用の水車設備は、津田吉之助氏に委嘱せるところ、吉之助氏は立派にこの要請に応えた。因みに氏は尾山神社神門の造営者であり、その子息津田米次郎氏は津田式力織機の発明者としても知られる。(吉之助氏は現織機業者津田米次郎氏の祖父に当る人)
[第1編]了
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